山口県防府市 桑ノ山墓地/野村望東尼墓所

桑山南麓にある市営桑ノ山墓地に、
女流勤皇歌人野村望東尼の墓があります。
訪問時はちょうど桜の時期でしたので、
多くの花見客が桑山を訪れ、
満開の桜を楽しんでいました。


野村望東尼歌碑」。
望東尼150年忌記念に建立されたもので、
市営桑ノ山墓地への道沿いに、
最後に詠んだとされる歌が刻まれています。
冬籠り こらへこらへて ひとときに
花咲きみてる 春は来るらし

間近に迫った維新の夜明けを予感させ、
予祝する歌となっているとのこと。


正五位野村望東尼之墓」。
野村望東尼の墓。
この墓碑は明治26年の望東尼追贈の際、
楫取素彦の呼び掛けにより、
昭憲皇太后の御下賜金や三条実美
毛利宗家らの協力で重修されたもの。
望東尼は福岡藩士浦野重右衛門の三女で、
モトと名付けられました。
幼少時より和歌書道裁縫等を習い、
17歳で一度嫁いでいますが、
半年程で離縁されて生家に戻っています。
その後に福岡藩士野村新三郎と再婚し、
良好な関係を築きましたが、
授かった子は育つことはなく、
新三郎の連れ子を我が子のように育て、
新三郎の隠居後は二人で平尾山荘に隠棲。
安政6年に新三郎が死去すると剃髪し、
尊攘志士らとの交流することで、
次第に政治への関心を抱き、
勤皇歌人として知られるに至り、
平尾山荘を密会の場として提供しました。
この平尾山荘には福岡藩加藤司書
平野国臣中村円太月形洗蔵らの他、
他藩からも多くの志士らが訪れ、
亡命してきた高杉晋作も匿っています。
慶応元年の乙丑の獄によって、
望東尼は姫島に流刑となっていますが、
晋作の指示で救助されて下関に移り、
白石正一郎邸に匿われました。
病に倒れた晋作を看取った後、
三田尻に移っていますが、
慶応3年に倒幕の軍勢の出陣を見送り、
その戦勝祈願の為に7日間断食して、
防府天満宮一日一首の和歌を奉納。
これが祟って62歳で死去しています。

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