青森県は本州の最北端です。
そして僕の住む山口県下関市は本州最西端。
端から端へやってきました。
山口と比べてやはり寒いですね。
今回は八戸藩の藩庁である八戸城を訪問。
八戸藩は八戸南部家の治める外様藩で、
盛岡藩の支藩と思われがちですが、
一応は独立した藩です。
盛岡藩3代南部重直が後嗣無く死去した為、
幕府の裁定によって遺領10万石を、
重直の2人弟七戸重信と中里直好に分割し 、
重信に8万石で盛岡藩主を継がせ、
直好に2万石で八戸藩を立藩させています。
中里直好は南部直房と改名し、
八戸藩の初代藩主となりましたが、
領地を分割された盛岡藩側に恨まれており、
初代直房と2代南部直政の死去の際には、
盛岡藩による暗殺の噂が流れました。
幕府にも暗殺の噂が伝わる事となり、
暗殺の嫌疑を晴らす為に、
盛岡藩は八戸藩の独立を認めています。
「八戸城跡」。
現在は三八城公園として整備されています。
「三八城神社」。
三八城公園内にある神社。
八戸藩初代藩主南部直房を主祀神とし、
甲斐源氏祖新羅三郎義光、
南部家祖南部光行も合祀されています。
三八城は「三戸郡八戸城」という意味。
「三八城公園」。
八戸城の本丸跡は公園となっています。
「八戸城本丸跡」。
八戸城の本丸跡を示す石標。
「八戸藩初代南部直房公」像。
公園中央に小高くなっている場所があり、
そこに初代藩主南部直房の銅像があります。
この小高い場所は天守台のようですが、
公園の整備で造られたものらしい。
八戸城は天守や櫓はなかったようで、
御殿や土蔵があるだけの陣屋規模でした。
八戸城と呼ばれるのは城主格だった為で、
城郭化する計画もあったようですが、
そのまま廃藩となっています。
「八戸城跡碑」。
こちらも先ほどの小高い場所にある碑。
八戸藩の歴史について刻まれていますが、
傍らに碑の現代訳の看板が建てられており、
内容について読むことができます。
こういうのは嬉しい。
「角御殿表門」。
南部会館の門となっている棟門で、
角御殿という藩主住居の表門だったもの。
数少ない八戸城の現存遺構。
戊辰戦争での八戸藩は、
同盟から脱退した弘前藩の攻撃を危惧し、
盛岡藩と共に藩境に兵を配備しましたが、
盟主の仙台藩が降伏したことにより、
盛岡藩と共に新政府軍に降伏しました。
降伏が新政府に受理された次の日、
突如として弘前藩と黒石藩が野辺地に進行。
盛岡、八戸連合軍はこれを迎え撃ち、
日の光を背にして撃退しています。
この戦いは野辺地戦争と呼ばれますが、
新政府軍の判断により私闘とされました。
※2020/07/19写真差し替え。一部記事追加。
【八戸藩】
藩庁:八戸城
藩主家:八戸南部家
分類:2万石、外様大名
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