奥の院墓地にある徳島藩蜂須賀家の墓所。
橋の上で寝ていた日吉丸(豊臣秀吉)は、
野盗の親分蜂須賀小六に頭を蹴られます。
これに怒った日吉丸は謝罪を要求し、
その度胸を見込んだ小六は、
日吉丸を家来として優遇しました。
後に秀吉は織田家に仕えて出世し、
若い頃に世話になった小六を召し抱え、
小六は後に大名にまで出世しました。
「太閤記」等で描かれるエピソードですが、
これは完全なフィクションです。
蜂須賀小六正勝は斎藤道三の配下で、
後に織田信長に仕えたとされており、
墨俣城築城の際に秀吉の与力となりました。
以後も秀吉の配下で戦い続け、
四国攻めでは目付として出陣して、
その論功行賞により阿波17万3000石を、
秀吉は正勝に与えるつもりでしたが、
正勝はこれを固辞した為、
息子の蜂須賀家政に与えています。
後に孫の蜂須賀至鎮は関ケ原で東軍に与し、
所領を安堵されて徳島藩を立藩。
以後は廃藩置県まで続きました。
「考峻徳院殿前阿州太守四品
心岳義傳大居士」。
徳島藩初代藩主蜂須賀至鎮の墓。
家政の長男として生まれた至鎮は、
徳川家康の幼女氏姫(万姫)を娶り、
関ケ原の戦いでは東軍として戦います。
父家政は豊臣家への義理からか、
剃髪して豊臣秀頼に阿波一国を返上。
関ケ原の戦いで家康が勝利すると、
阿波一国を安堵されて家督を相続。
大坂の陣でも活躍しており、
その功績により淡路国を加増されました。
藩政の基礎作りを進めたほかに、
塩田の開発や備蓄米確保を行っており、
名君として慕われていましたが、
元和6年(1620)に35歳で病死しています。
ちなみに正勝の宝筐院塔が、
至鎮の墓の脇に建てられていたらしい。
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