奥の院墓地にある仙台藩伊達家の墓所。
一の橋近くにも仙台藩伊達家墓所があり、
2代及び3代藩主の墓所となっていますが、
それ以外の藩主は参道中央付近にあります。
「瑞岩寺殿貞山利公大居士」。
仙台藩初代藩主伊達政宗の墓。
流石に立派な五輪塔です。
政宗は伊達家16代伊達輝宗の長男で、
幼少期に疱瘡で右目を失明しています。
三春城主田村清顕の娘愛姫を娶り、
天正12年(1584)に父の隠居に家督を相続。
翌年に父輝宗が畠山義継に拉致され、
これを追って照宗もろとも射殺しました。
その後は諸勢力と戦いつつ版図を広げ、
会津4郡仙道7群を支配するに至りますが、
豊臣秀吉の小田原征伐に遅参した為、
会津領を没収されています。
朝鮮出兵では絢爛豪華な軍装をあつらえ、
派手に着飾った軍勢を率いて参戦。
派手好きの意「伊達者」の語源となりました。
秀吉から謀反を疑われた際には、
死に臨む白装束を着込んで弁明。
徳川家康から「百万石のお墨付き」を得て、
慶長出羽合戦で上杉家と戦いますが、
その後の一揆煽動の発覚で反故とされ、
微量の加増を受けています。
大坂の陣は冬夏共に出陣しており、
戦後は領国経営に尽力しつつ、
徳川秀忠、徳川家光に仕えました。
寛永13年(1636)、死去。
政宗の五輪塔の後方には、
4代以降の藩主の墓碑が集まっています。
「大年寺殿故羽林中郎将
肯山全提大居士神儀」。
4代藩主伊達綱村の墓。
綱村は3代綱宗の嫡男として生まれ、
暗愚であった父が強制隠居させられた為、
その跡を継いで僅か2歳で藩主となりました。
この為に家臣団により藩は運営され、
家臣間の対立が激化して伊達騒動に発展。
多くの関係者が処罰されるに至りますが、
綱村自身は若年の為に不問となります。
成長後は親政を開始しており、
様々な政策や改革を行いますが、
これにより藩財政は悪化しました。
家臣らは綱村へ諫言書を提出しており、
後に隠居を余儀なくされています。
「續燈院殿故羽林中郎将
獅山元活大居士神儀」。
5代藩主伊達吉村の墓。
吉村は2代伊達忠宗の八男伊達宗房の嫡男で、
一関藩主田村建顕の養子になる予定でしたが、
継嗣のいない綱村の養子となっており、
養父の隠居に伴い家督を相続。
逼迫する藩財政の立て直しを図り、
役職整理、貨幣鋳造を実施した他、
農民から余剰米を供出させて江戸に送り、
藩財政を好転させるに至っています。
「政徳院殿故羽林中郎将
忠山淨信大居士神儀」。
6代藩主伊達宗村の墓。
宗村は5代吉村の四男に生まれますが、
兄達が養子に出された事で継嗣となり、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
江戸城内で熊本藩5代細川宗孝が、
旗本板倉勝該に惨殺された事件では、
機転を利かせて「宗孝はまだ息があるので、
屋敷に運んで手当せよ」と指示。
宗孝の家臣らは遺体を藩邸に運んで、
弟の細川重賢を養嫡子とする事を幕府に届け、
そのうえで宗孝の死去を届け出た為、
熊本藩は改易の危機を回避しました。
武術に秀でて教養もある人物でしたが、
宝暦6年(1756)に39歳で死去しています。
「叡明院殿故羽林中郎将
徹山玄機大居士神儀」。
7代藩主伊達重村の墓。
重村は6代宗村の次男に生まれ、
父の死去に伴い15歳で家督を相続しました。
藩主就任早々宝暦の飢饉が発生し、
奉行らの間で対応を巡って意見が対立。
宝暦疑獄という騒動に発展しています。
成長した重村は猟官運動を展開し、
幕閣への賄賂や手伝普請を積極的に行い、
念願の従四位上左近衛權中将に叙任。
しかしこの猟官運動が財政を困窮させ、
人事を巡る安永疑獄の騒動に発展。
財政は好転せぬまま寛政2年(1790)に隠居し、
寛政8年(1796)に死去しました。
「永慶院殿故羽林中郎将
桂山蘭榮大居士神儀」。
8代藩主伊達斉村の墓。
斉村は7代重村の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
寛政8年(1796)に嫡子政千代が誕生しますが、
産後の肥立ちが悪く正室誠子が死去すると、
同年に前藩主重村も死去しており、
更に斉村も同じく同年に死去しました。
「青龍院殿故陸奥国主
紹山隆公大居士神儀」。
9代藩主伊達周宗の墓。
周宗は8代斉村の嫡男でしたが、
誕生と同年に両親と祖父を亡くし、
僅か1歳で家督を相続しています。
藩政は家臣団の協力体制で行われますが、
14歳で疱瘡に罹り後遺症を得てしまい、
以後は異母弟が藩主代行を務めました。
文化9年(1812)に幕府に隠居願いが出され、
同年に死去したとされますが、
一説には14歳で既に死去しており、
その死は3年間秘匿されたとされています。
「廣徳院殿故羽林次将
英山元高大居士神儀」。
10代藩主伊達斉宗の墓。
8代斉村の次男として生まれますが、
父は誕生前に既に死去しており、
同年に生まれた兄が1歳で家督を相続。
兄が疱瘡の後遺症で表に出なくなると、
その名代として儀式や接客を担当しており、
後に兄がそのまま隠居となると、
家督を相続して10代藩主となります。
しかし斉宗も生来病弱であった為、
文政2年(1819)に24歳で死去しました。
「曹源院殿故羽林次将
正山栄宗大居士神儀」。
11代藩主伊達斉義の墓。
斉義は一関藩5代田村村資の四男。
文政2年(1819)に10代斉宗が継嗣なく死去し、
婿養子というカタチで家督を継ぎましたが、
斉義も僅か9年の治世で死去しています。
「慈雲院殿故羽林中郎将
龍山真珠大居士神儀」。
12代藩主伊達斉邦の墓。
斉邦は登米伊達家11代伊達宗充の長男で、
10代斉宗の後継候補でもありましたが、
選ばれた11代斉義は早逝してしまい、
文政11年(1827)に家督を相続しました。
有能な人材を登用して藩政改革を主導し、
学問を奨励する等していますが、
治世では災害が頻発して財政は困窮。
13年の治世で死去しています。
11代斉義の遺児穣三郎を養子としており、
穣三郎が13代伊達慶邦として家督を継ぎ、
幕末期の藩主となりました。
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