和歌山県和歌山市 和歌山城

和歌山に出張。冬は日没が早いので、
仕事終わりに史跡には行けませんが、
せっかく紀州徳川家のお膝元に来たので、
是非とも和歌山城には訪問しておきたいと、
早起きして仕事前に行ってきました。

和歌山城は豊臣秀吉の命により、
その弟豊臣秀長が築城した城で、
築城の名手藤堂高虎の指揮により、
約1年で完成させた梯郭式平山城です。
秀長自身は四国征伐等で多忙であった事と、
後の加増で大和郡山に移った事により、
結局は居城とはしておらず、
家臣の桑山重晴を城代としています。

関ヶ原の戦いでは重晴の孫桑山一晴が、
東軍として戦っており、
和歌山周辺2万石を安堵されていますが、
大和国葛上、葛下二郡に転封となり、
代わって浅野幸長が37万6000石で入封。
後に2代浅野長晟の時代に、
広島藩福島正則が改易となった為、
浅野家は広島に加増転封されました。
代わって徳川家康の十男徳川頼宣が入り、
55万5000石の紀州徳川家が成立します。

宿から徒歩3分の距離でしたので、
仕事前でも十分に時間がありました。
とりあえず大手門より城域を散策。

一の橋大手門」。
和歌山城の大手門(表門)。
当時の門は明治42年に自然倒壊しました。
自然倒壊って・・相当ボロボロで、
補修もせずほったらかしだったんですかね。
現在の門は古写真を元に復元されたもの。


一の橋の樟樹」。
大手門を抜けて最初に目に付く大きな木。
樹齢450年とのこと。
幕末時でも樹齢300年になるので、
当時もある程度の大きさだったでしょう。


伏虎像」。
大手門より更に進み、
御中門跡を過ぎた所にある虎の像。
これは和歌山城の建つ虎伏山が、
虎が伏している姿に似ていることに因み、
伏した虎が造られたそうです。
この像は2代目で1代目は立っていたとか。
じゃあ伏した虎じゃないのでは?と、
素朴な疑問が生まれます。


二の丸跡」。
二の丸御殿藩政の中心であったようです。
藩主住居大奥も二の丸御殿にありました。
和歌山城本丸は虎伏山山頂付近でしたので、
何かと不便だったのでしょう。
ちなみに大奥は江戸城と名古屋城と、
この和歌山城にしか無かったらしい。
そりゃそうですよね。
大名の正室は江戸にいるんですから。


御橋廊下」。
二の丸と庭園のある西の丸を繋ぐ橋。
藩主と一部の人しか通れなかったようで、
移動を気付かれないように、
目隠しが付けられたようです。


紅葉渓庭園」。
西の丸にある回遊式庭園で、
名前のとおり紅葉が繁茂しています。
早朝で中に入れませんので外側より撮影。
内堀の畔に建つ建物は池亭[鳶魚閣]です。


追廻門」。
城内で唯一赤く塗らている門。
追廻門は二の丸の裏鬼門に当たるため、
魔除で赤く塗られたと推測されています。

追廻門の近くの垣根に囲まれた場所に、
自然石で建てらえた石碑があります。

盡忠之碑」。
和歌山城で唯一の幕末関係の石碑。
追廻門外で殺された田中善蔵の顕彰碑。
田中善蔵は紀州藩改革派の一人で、
藩政改革を推し進めた為、
守旧派の藩士達に襲撃されました。
俸禄削減を阻止するための犯行という。
城の南側の秋葉山に建てられていましたが、
明治100年を記念して移設されました。
50年前ということですね。

城を出て南方向の県庁前交差点へ。

徳川吉宗公之像」。
和歌山県立近代美術館の前の徳川吉宗銅像。
わざわざ説明するまでもないですが、
紀州藩5代藩主及び8代征夷大将軍です。
キリスト教関係以外の洋書の輸入解禁し、
西洋学が学ぶ事ができるようになって、
それが幕末に繋がっています。

東方向へ城域に沿って進む。

岡口門」。
城の南東にある門。
浅野家時代の大手門でしたが、
一の橋が造られて大手門が新たに出来た為、
搦手門として修復されました。
紀州徳川家が入府時に改修したもので、
数少ない現存する遺構。

岡口門より再び城へ入り、
左へ向かった先が南の丸跡で、
小さいながら動物園がありました。
開園したのはなんと100年前!
しかも入場は無料。
ですが早朝なので閉園していました。

動物園を過ぎて本丸に向かう。

楠門(天守二の門)」。
ここから先は有料。
もちろん早朝なので入れません。


大天守」。
天守は大天守小天守が連立式に建てられ、
現存天守の姫路城伊予松山城と並び、
三大連立式平山城の一つに数えられますが、
復元されたコンクリート製のものです。
戦前は国宝に指定されていたのですが、
当時の天守は空襲で焼失してしまい、
昭和33年に再建されました。

最初の天守は弘化3年の落雷で焼失し、
嘉永3年に再建していますが、
落焼失前は黒色だったという説あります。
熊本城のような外観をしていたようで、
一般的には豊臣の城は黒く、
徳川の城は白いとされますが、
和歌山城は秀長の城でしたので、
当然のように黒い外観で、
御三家の城ながら豊臣風の城でした。
それが落雷で焼失してしまったおかげで、
白い天守を持っに至っています。
これは諸説ありますので、
本当かはわかりません。

幕末の紀州藩は14代将軍を排出。
13代将軍徳川家定に後継がいなかった為、
将軍継嗣問題が発生し、
一橋徳川家徳川慶喜を推す一橋派と、
紀州藩13代徳川慶福を推す南紀派が対立。
結局は南紀派の井伊直弼大老に就任し、
慶福が次期将軍に決定しました。
14代将軍となった慶福は徳川家定と改め、
公武合体政策の一環として、
和宮親子内親王を正室に迎えます。
文久3年に229年ぶりの上洛を果たし、
動乱期の将軍職を務めましたが、
第二次長州征伐の最中に病死。
13代慶福が将軍になったことにより、
支藩西条藩9代松平頼学の六男松平頼久が、
14代藩主徳川茂承に就任します。

第二次長州征伐で先鋒総督に任命され、
附家老安藤直裕を名代として広島に派遣。
大政奉還後は静観していましたが、
鳥羽伏見で敗走した旧幕府将兵を受け入れ、
新政府軍の討伐を受けることになりました。
これに対して紀州藩では恭順を決定し、
藩兵1500人を提供すると共に、
軍資金15万両を献上。
新政府は紀州討伐を中止しています。

【紀州藩】
藩庁:和歌山城
藩主家:紀州徳川家
分類:55万5000石、親藩大名(御三家)

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