宮城県に日帰りで出張。
片道4時間半の鬼スケジュールですが、
急遽起こった不具合の調査なので仕方無い。
夜暗いうちから下関を出発し、
昼前に到着するといった感じになり、
機械の不具合を調査してトンボ帰りです。
調査が思ってたより早く終わったので、
近くの高鍋城跡に寄ってから帰りました。
高鍋城は高鍋藩の藩庁ですが、
平安時代より築かれていたという古城で、
始めは財部城と呼ばれていました。
財部城は日向の豪族土持家の城でしたが、
戦国時代の当主土持景綱が伊東祐堯に敗れ、
財部城など周辺の城が伊東家のものとなり、
以後は伊東家家臣落合家が、
城主に任命されて居住します。
しかしその後の当主落合兼朝の代に、
伊東帰雲斎に嫡男を殺される事件が発生。
その恨みから兼朝は島津家に寝返りました。
後に島津家家臣川上忠智が城主となり、
豊臣秀吉の九州侵攻で島津家が降伏すると、
秋月城主であった秋月種実が財部に移封。
種実は櫛間城を本拠としますが、
関ヶ原の戦いの後に次代秋月種長が、
財部城に本拠を移して改修工事が行われ、
3代秋月種信が高鍋城に改称しました。
※櫛間城は廃城となっています。
「舞鶴公園」。
高鍋城跡は舞鶴公園となっています。
別名舞鶴城と呼ばれていたようですが、
同じく舞鶴城と別称した城は福岡城や、
唐津城、田辺城など多くの城があり、
城跡は舞鶴公園として整備されています。
他と同じく鶴が舞う様子に例えるような、
美しい城だったのでしょう。
「岩坂門跡」。
岩坂門は高鍋城の大手門だった門で、
石段と脇の石垣の様子から、
立派な門があった事が想像できます。
「舞鶴神社」。
石段を登ると二ノ丸跡。
二ノ丸跡には舞鶴神社が鎮座しています。
高鍋城下には秋月より移鎮させた八幡宮、
秋月家の旧領太宰府より勧請した菅原神、
秋月の白髪嶽より移鎮させた白山権現、
八幡宮の摂社であった熊野三神、
同じく八幡宮の摂社であった闇淤加美神。
旧領主財部貞綱を祀る財部神社があり、
これらが廃藩置県の際に合祀されて、
さらに藩主家である秋月家歴代藩主も、
合祀されて創建されています。
「高鍋のクス」。
二ノ丸跡の大クスは樹齢500年とのこと。
藩政を見てきた木ということになります。
昭和20年の台風で破損してしまい、
現在はワイヤーで固定されていました。
二ノ丸より石段を登って本丸へ。
「殉難招魂之碑」。
石段を登った先にある碑。
高鍋藩は戊辰戦争で11名の戦死者を出し、
この碑はその十一勇士を招魂したもの。
さらに登って本丸へ。
「高鍋城本丸政庁」。
この比較的広い敷地の曲輪に、
政庁と藩主御殿が建てられていたようです。
「丁丑戦亡記念碑」。
明治10年に西南戦争が勃発すると、
高鍋の旧士族は西郷軍に参戦するか否か、
議論が分かれていましたが、
郷土の孤立を恐れて西郷軍に参加しました。
参加反対派の元高鍋藩士城竹窓は、
参戦派の追求で苦境に陥っていたが、
西郷軍の敗北によって西南戦争が終わり、
碑文を請われた際に心境を綴っています。
「・・二派に分かれたとはいうものの、
その目指すところは同じ正義であり、
もしあの世で一同が会い、
胸の内を開いて打ち解けて語り合えば、
全て高笑いで済ますことであろう・・」。
碑は西郷軍高鍋隊の戦死者を慰霊したもの。
「高鍋護国神社」。
本丸南側の一段高い場所には、
国難者を祀る護国神社があります。
ここは奥御殿が建てられていた場所。
「高鍋護国神社社殿」。
戊辰戦争で戦死した隊長鈴木来助以下、
11名を招魂する為に創建された神社で、
大東亜戦争までの戦死者を合祀しています。
本丸跡よりさらに登ると財部城時代の山城。
もちろん高鍋城時代もあったのでしょうが、
殆ど使われていなかったと思います。
「高石垣」。
8mの高さがあるようです。
この上に三層櫓が建てられていたらしい。
山頂部。
財部城時代の本丸か?
何もありませんでした。
高鍋藩はJFKも尊敬する上杉鷹山の実家。
鷹山は高鍋藩6代秋月種美の次男で、
実母の祖母が上杉家の娘であった縁もあり、
米沢藩8代上杉重定の養嫡子となりました。
鷹山は米沢藩の9代藩主となると、
財政難に喘ぐ藩財政の建て直しを図り、
飢饉対策で天明の大飢饉から領民を守り、
隠居後も藩政を実質指導して財政難を克服。
米沢藩では鷹山を中興の祖と呼び、
今でも尊敬されています。
この鷹山の兄である高鍋藩7代秋月種茂も、
弟と同じく名君であったようで、
藩校明倫堂を創建し人材を育成しています。
9代秋月種任の三男秋月種樹は英明で、
小笠原長行、本多正訥と並び、
学問界の三公子と称されており、
部屋住のまま学問所奉行に抜擢されました。
兄の10代秋月種殷の養嫡子となった後は、
若年寄格となり学問所奉行解任後は、
将軍徳川家茂の侍読となっています。
長州征伐に幕府が失敗すると幕府を見限り、
若年寄に任命されますが病を理由に応じず、
薩摩藩の翔凰丸に乗って脱出。
幕府海軍の砲撃を受けて損傷を受けますが、
なんとか兵庫までたどり着きました。
※擾乱工作をしていた相楽総三らも乗船。
大政奉還後に種樹は江戸城に再び出仕し、
改めて若年寄を辞意して認められています。
高鍋藩は新政府に恭順して戊辰戦争に出兵。
隊長鈴木来助が戦死するなど勇敢に戦い、
11名の戦死者を出しています。
同盟軍の米沢藩に降伏を促したのは、
親戚でもあった高鍋藩秋月家で、
米沢藩が速やかに降伏したのには、
高鍋藩の働きが大きかったようです。
明治10年の西南戦争では、
戊辰戦争の総指揮官武藤東四郎や、
元藩士柿原宗敬ら参戦派が高鍋隊を結成。
西郷軍合流反対派を蔵に閉じ込めて、
川尻の西郷軍と合流しました。
隊は田原坂後方七本の守備を担当しますが、
着任早々政府軍が七本に総攻撃を仕掛け、
高鍋隊は状況把握できぬまま応戦し、
何も出来ぬまま敗走。
また旧高鍋藩の飛地福島でも、
旧藩士が福島隊を結成。
西郷軍に合流して安政橋の警備を担当し、
これに高鍋隊が合流しますが、
熊本城突囲隊に突破を許してしまいます。
その後も各地を転戦し戦場が宮崎に移ると、
高鍋隊は故郷の高鍋を守備。
政府軍は新撰旅団を含む大軍でこれを攻め、
まもなく高鍋隊は壊滅しました。
西郷軍解兵後も隊士の一部は西郷と同行し、
城山で戦死を遂げています。
【高鍋藩】
藩庁:高鍋城
藩主家:秋月家
分類:2万7000石、外様大名
■関連記事■
・東京都港区 光林寺/高鍋藩秋月家墓所
高鍋藩秋月家の6~9代墓所。
・宮崎県宮崎市 佐土原城跡
隣藩の佐土原藩島津家の居城跡。
・宮崎県日南市 飫肥城跡
近隣の飫肥藩伊東家の居城跡。
・福岡県朝倉市 秋月陣屋跡
高鍋藩秋月家のかつての居城跡。