石見国は浜田藩や津和野藩領でしたが、
鉱山などの重要な一部の地域は、
天領として幕府が持っていました。
石見銀山(記事はこちら)がその代表ですが、
鹿足郡のあった笹ヶ谷銅山も天領として、
大森代官所の支配下に置かれています。
その笹ヶ谷銅山を経営していたのが、
山師であった堀家で、
江戸後期頃から次々に鉱脈を発見し、
幕末には惣年寄役に任命され、
有力な一族として栄えました。
「旧堀氏庭園」。
堀家邸宅は庭園として整備されており、
周辺が国名勝として指定されています。
「主屋」。
天明5年建築の堀家の主屋。
明治時代以降も繁栄した堀家の主屋は、
天井の明り取りや金庫、電話室など、
数々の改築が成されています。
「堀庭園裏間歩」。
主屋裏には鎌倉時代の間歩が現存。
「楽山荘」。
入母屋造桟瓦葺2階建の客殿。
明治33年の建築。
楽山荘1階広間からの庭園の眺め。
ほんとに素晴らしい景色です。
2階から庭園を眺めるウチの子ら。
子供にも良さがわかるのでしょうか?
「和楽園」。
道路向かいにある大正4年作庭の日本庭園。
自然の岩盤を利用して滝石組が組まれ、
その間を園路が巡っており、
東屋も建てられています。
和楽園にある14代当主の銅像台座。
金属摘出で失われたのでしょうか?
14代党主堀藤十郎伴成は病気がちで、
早々に長男に家督を譲ったようです。
「堀伴良翁碑」。
幕末期の当主13代堀藤十郎伴良の顕彰碑。
新しい鉱脈を次々に発見し、
笹ヶ谷銅山取締総年寄に任じられた当主。
幕府や津和野藩に資金提供を行っています。
また幕長戦争の際には、
派遣されていた軍目付長谷川久三郎らを、
津和野藩が長州藩に引き渡していますが、
これは天領総年寄である堀家の立ち合いで、
行われたようです。
「旧畑迫病院」。
明治25年に創設された私立病院。
15代当主の堀礼造が、
住民へ医療を安価に提供する為に設立。
後に畑迫医院、畑迫診療所と改称しながら、
昭和59年まで機能していました。
明治期の当主堀礼造は、
鉱山経営事業を拡大させ、
最盛期は中国一円の銅山を経営したとされ、
中国地方の銅山王と呼ばれたという。
殺鼠剤[石見銀山猫いらず]も生産し、
江戸や上方でも売られたようですが、
実は石見銀山のものではなく、
材料のヒ素は笹ヶ谷銅山で産出。
知名度の高い石見銀山の名が冠され、
大ヒットしたようです。
ヒ素は銅産出の副産物でした。
銅で儲け、ヒ素で儲け・・・。
堀家は相当の財力があったようですが、
今に残る[旧堀氏庭園]からも、
その栄華が伺い知れます。
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