伊勢亀山城は古くからの豪族関家の居城で、
戦国時代の当主関盛信は織田信長に降り、
信長の三男神戸信孝の配下となります。
しかし信孝とソリが合わなかった為、
近江の日野城に移されていますが、
羽柴秀吉配下の樋口直房が逃亡した際に、
これを討ち取りました。
その後、信孝が伊勢から移封された為に、
再び亀山城に戻されています。
本能寺の変後に盛信は秀吉に仕えますが、
滝川一益に攻められて亀山城は落城。
盛信は落ち延びていますが、
後に秀吉の大軍が亀山城を奪還しています。
その後、盛信は美濃国多良に転封となり、
亀山城は岡本良勝に与えられて改修され、
その後の亀山城の基礎が出来上がります。
関ケ原の戦いで良勝が西軍に組した為、
東軍に寝返った盛信の子関一政が、
3万石で亀山に再封されましたが、
後に5万石に加増されて黒坂に移封となり、
奥平松平家の祖である松平忠明が入封。
大阪夏の陣後に大坂藩に移された後は、
天領や一時津藩領となりました。
以後、三宅家、本多家、板倉家、
大給松平家等、藩主家は入れ替わりますが、
江戸中期に石川総慶が備中松山藩より入封。
この後より藩主家が定着する事になります。
「亀山城跡」。
亀山城は廃条令によって石垣や堀、
土塁を残し取り壊されましたが、
唯一多門櫓だけは残され、
保存整備事業で修復保存されています。
「鐸山近藤君碑」。
亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑。
藩の勤皇派家老として執政を行いますが、
三条実美らと親交があった為、
禁門の変への関与を疑われて幽閉。
大政奉還後に軍事奉行となっています。
維新後は亀山藩大参事となり、
明治23年に死去。
「飯沼慾斎生誕之地」碑。
亀山出身の本草学者飯沼慾斎の誕生地の碑。
二ノ丸脇に建てられていますが、
本来の生まれた場所は西町とのこと。
飯沼慾斎は西村信左衛門の次男に生まれ、
母方の親戚で大垣の漢方医飯沼長顕に学び、
長顕の娘を娶って飯沼家を継ぎました。
本草学日本一と云われた小野蘭山に学び、
蘭学者江馬蘭斎の紹介で宇田川榛斎に師事。
大垣に戻って医院を開業して、
49歳で家督を義弟に譲った後は、
本草学研究に没頭して草木図説を著します。
これは日本初のリンネ分類法の植物図鑑で、
昭和に入ってからも木版で出版されており、
海外でも高く評価されました。
「黒田孝富遺剣之碑」。
亀山藩士黒田寛一郎の顕彰碑。
家老近藤鐸山に抜擢されて京都で活動し、
人脈に明るく三条実美の信任を得ましたが、
八月十八日の政変後に謹慎となっています。
大政奉還後に藩政に参加していますが、
これを妬む守旧派によって殺害されました。
「山嵜雪柳翁遺剱之碑」。
亀山藩剣術師範山崎雪柳軒は武芸に優れ、
伊庭秀業に心形刀流を学んだ他、
槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫に学び、
道場には全国から門弟が集まったという。
伊庭八郎の征西日記にも登場します。
※記事はこちら。
「多門櫓」。
現存する亀山城唯一の建築物。
平成24年に修復工事が行われました。
石段を登って多門櫓を拝見。
土日祝に内部を開放しているようですが、
訪問時は平日ですので閉まっていました。
「亀山神社」。
本丸跡に鎮座する神社。
石川総慶が亀山城に入城した際、
城内に小祠を設けて家祖源義家及び、
六男源義時を祀ったことに始まり、
以降は真澂神社として崇敬されました。
明治4年の廃藩置県後に若山に遷座され、
明治9年に本丸跡に戻されています。
後に西町の亀山皇太神社、
阿野田村の式内社真木尾神社などを合祀。
明治41年に亀山神社と改めてました。
「明治天皇行在所」。
亀山神社境内にある明治天皇の行在所。
明治13年に明治天皇は大阪鎮台と、
名古屋鎮台の対抗演習を天覧する為、
藤屋伊藤市次郎宅でニ泊していますが、
宿泊した8畳間が移築されています。
「大久保神官家棟門」。
南崎権現社の神官大久保家の邸宅の門。
大久保家は幕末期には、
42社の神官を兼ねていたという。
この門は小学校の裏門として移築された後、
亀山神社境内に再移築されています。
「亀山演武場」。
山崎雪柳軒は10代石川総脩の許しを得て、
元藩主石川総和の隠居所喬松館の東に、
約50坪の武術道場演武場を創設。
伊庭道場の長所を取り入れた道場で、
心形刀流の稽古を行っています。
明治15年に現在地に移築されますが、
昭和60年に火災で焼失。
その後、旧演武場の外観や内容を再現し、
亀山演武場が再建され、
現在も心形刀流剣術を伝承しています。
「二之丸跡(亀山市役所)」。
藩主の住居及び藩庁は、
二之丸内に建てられた御殿にあり、
跡地は現在の亀山市役所辺りです。
亀山市街には遺構ではありませんが、
大手門跡や太鼓門跡などの碑が建っており、
大規模であったということが伺えます。
亀山の名の城に丹波亀山城がありますが、
丹波亀山城の天守の破却を決定された際、
幕府はこれを堀尾忠晴に命じますが、
忠晴は間違って伊勢亀山城の天守を破却。
以後は伊勢亀山城に天守が再建されず、
代わりに現存する多門櫓が建てられます。
「石井兄弟亀山敵討遺跡」。
坂道を下った途中の池の畔に、
仇討ちがあったとされる場所があります。
元禄期の浜松藩士石井宇右衛門は、
遺恨で赤堀源五右衛門に討たれますが、
長男の石井三之丞は仇の源五右衛門を追い、
源五右衛門の義父赤堀遊斉を討ち、
高札を建てて決闘を申し込みましたが、
源五右衛門は三之丞を卑怯討ちしてしまう。
これに三之丞の弟である半蔵と源蔵は、
父や兄の仇を討つことを誓い、
28年目に仇の源五右衛門を見つけ、
決闘の末に見事本懐をとげたという。
幕末期の伊勢亀山藩は、
嘉永6年に8代藩主石川総紀が隠居し、
前藩主の子石川総禄に家督を譲ります。
執政は勤皇派家老近藤鐸山が取り仕切り、
黒田寛一郎を京都に派遣していますが、
文久2年に総禄が死去すると、
隠居の総紀は幼い実子を藩主とし、
近藤ら勤皇派の弾圧を開始。
総紀は藩内の佐幕派に実権を握らせ、
会津藩士林権助の門人小幡枝織を招き、
藩の軍政を改革して洋式兵制を行いました。
将軍徳川慶喜が大政奉還すると、
動揺した藩政府は勤皇派の謹慎を解き、
人脈のある黒田に京都情勢を探らせ、
勤皇諸藩士や三条実美に引見。
伊勢亀山藩は勤皇であると新政府に陳述し、
旧幕府側として守口に駐屯していた藩兵も、
戦う事無く解散させています。
近藤の謹慎も解かれて藩政に参加しますが、
これに反対する勢力が黒田を襲って殺害。
近藤も幽閉されています。
伊勢亀山藩の政局は二転三転しますが、
執政は中間派が行う事となりますが、
この事が新政府に知れる事となり、
藩主石川成之と隠居の総和が呼び出され、
黒田殺害犯を厳罰と近藤の政務への復帰、
桑名藩征討の先鋒を言い渡されています。
【伊勢亀山藩】
藩庁:伊勢亀山城
藩主家:家成流三河石川宗家
分類:6万石、譜代大名
■関連記事■
・京都府亀岡市 丹波亀山城跡
同じく亀山城の名を冠した丹波亀山城。
・岐阜県大垣市 大垣城
本草学者飯沼慾斎の碑があります。
・伊庭八郎の征西日記⑬
伊庭八郎は山崎雪柳軒を訪ねています。