下関の民話に[あかずの扉]という怪談?が、
伝承されています。
話が幕末のようなのでご紹介。
明治になるちょっと前の事、
天然痘が大流行した年がありました。
長府逢坂の坂口、向かって右手の角屋敷に、
松田という三百石取の侍が住んでいましたが、
松田の家でも唯一人の男の子と、
その家に奉公する中間の子どもとが、
同時に天然痘にかかりました。… 続きを読む
下関の民話に[あかずの扉]という怪談?が、
伝承されています。
話が幕末のようなのでご紹介。
明治になるちょっと前の事、
天然痘が大流行した年がありました。
長府逢坂の坂口、向かって右手の角屋敷に、
松田という三百石取の侍が住んでいましたが、
松田の家でも唯一人の男の子と、
その家に奉公する中間の子どもとが、
同時に天然痘にかかりました。… 続きを読む
文久3年の長州藩の攘夷決行に際し、
支藩の長府藩も宗家と共に行動しますが、
戦場となるのが長府藩領であるだけに、
色々と諸問題が発生します。
長府藩の藩庁である長府陣屋は、
破却された櫛崎城の三ノ丸跡である為、
攘夷戦で外国船が反撃に転じた場合、
大砲が届く非常に不利な場所でした。… 続きを読む
長府の商店街沿いにある正円寺は、
樹齢千年の銀杏樹が本堂前にそびえるお寺。
ここに洋式砲術家河崎董の墓所があります。
「正円寺正門」。
正円寺はもともと現在の位置ではなく、
北に1km行った山中にありましたが、
長府藩の政策で山陽道沿いに移されました。
本堂は明和3年(1766)に建立されたもの。… 続きを読む
日本も昔から法治国家なわけで、
法があるということは刑もある。
刑があるという事は刑場も必然的。
江戸時代の幕藩体制においては、
各藩の藩法に乗っ取り刑罰が行われ、
それぞれの藩ごとに刑場がありました。… 続きを読む
敵方の動向を探る一番有効な手段は、
間者(スパイ)を潜り込ませることでしょう。
幕府は各藩に隠密を潜り込ませましたし、
諸藩も京都や江戸等の各地に探索方など、
間諜を出していたらしい。
新撰組にも間者がいたようですし、
隊士も間者として粛清されています。
※これについての正否は不明。
壇ノ浦砲台と前田砲台… 続きを読む
菊川町で船越清蔵関連史跡を訪ねました。
船越清蔵は清末藩士船越孟正の長男で、
藩校育英館に学んだ後に豊後に遊学して、
儒学者帆足万里や広瀬淡窓に師事します。
5年間の遊学を終えて帰ってきますが、
何か思うことがあったのか、
家督を放棄して在野に下りました。
諸国を旅して長崎等で蘭学や医学を学び、… 続きを読む