■2020/02/01 写真差し替え及び記事修正。
「長州藩下関前田台場跡」。
前田台場は攘夷戦に備えて築かれた台場で、
文久3年5月に海峡を渡る外国船を砲撃し、
6月に米仏海軍に報復攻撃を受けています。
ベアトによる前田台場占領時の写真。
6月1日の米艦ワイオミングの報復に続き、
同5日に仏艦セミラミスとタンクレードは、
前田、壇之浦両砲台に砲撃して沈黙させ、
陸戦隊を降ろして台場を占拠し、
台場の大砲等を破壊。
その後、仏艦2隻は横浜に引き上げました。
※この写真はその時のものではなく、
後の四国連合艦隊による占領時のもの。
「低台場跡」。
この時占領されたのが[低台場]です。
跡碑より1段低くなっている所が、
砲台が設置されていた場所。
当初の前田台場はこの低台場のみでした。
「行啓記念碑(左)」、
「前田御茶屋台場址(右)」碑。
大正15年に皇太子であった昭和天皇が、
この地を訪れた事を記念する碑。
碑の脇に前田御茶屋台場址碑があります。
碑名からもわかるようにこの前田には、
長府藩藩主が休憩する御茶屋がありました。
11代毛利元義の別邸も建てられており、
関門海峡と周防灘を一望できる場所で、
景勝地であったようです。
なんだかよくわかりませんが、
貴重そうなレンガ造りの建物もあります。
色々と問い合わせてみます。
「高台場跡」。
占領を受けて増築された台場跡。
6月1日の米艦の報復で、
長州艦庚申丸、壬戌丸が撃沈され、
癸亥丸は大破し、
各台場も大きな被害を受けました。
この報を聞いた藩は高杉晋作を召喚。
晋作は藩の許しを得て奇兵隊を創設します。
※前田台場は奇兵隊が担当。
前田台場も御茶屋を移転して台場を増設。
以前からあった台場を[低台場]、
高台に増設された台場を[高台場]とし、
前田台場は二段構えの台場となりました。
「皇太子殿下駐駕之處」。
「高台場跡」にある記念碑で、
大正期に貝島太市の別荘が建てられ、
※貝島炭礦の社長。
当時の皇太子皇も滞在しました。
後に中国電力の寮が建てられますが、
現在は下関市が買い取っています。
元治元年8月。
再整備した前田台場でしたが、
ご存じのように砲撃に為す術なく沈黙。
再び占領されてしまいました。
他の台場も悉く破壊され、
惨敗した長州藩は、
四国連合艦隊に講和を申し入れ、
高杉晋作を正使として派遣しています。
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