攘夷戦」タグアーカイブ

山口県萩市 善福寺/楢崎弥八郎墓所

楢崎弥八郎甲子殉難十一烈士のひとり。
東光寺に彼らの墓がありますが、
遺体は善福寺に埋葬されたようです。


楢崎家先祖合葬墓」。
大組楢崎家の合葬墓。
弥八郎の楢崎家は大組士でしたが、
同じく大組士の楢崎頼三とは別家。
※白虎隊士飯沼定吉続きを読む

下関市彦島 弟子待砲台跡

海軍山と呼ばれていた彦島南公園
その公園から海岸へ下りると、
2つの遺跡が残っています。


水雷発射基地突堤」。
日露戦争の際に露軍バルチック艦隊が、
関門海峡を通過した際に迎え撃つ為、
建造された水雷発射基地突堤。… 続きを読む

下関市赤間町 教法寺

教法寺は赤間町にある真宗本願寺派の寺院。
鎌倉期の元応年間(1319~1321)、
教法房浄信が海岸で木仏を見つけ、
これを安置する為に創建されました。

幕末の攘夷戦の際には先鋒隊の屯所となり、
奇兵隊とのイザコザから襲撃を受け、
隊士蔵田幾之進が殺害されています。… 続きを読む

勅使を迎える奇兵隊士達

攘夷を決行した長州藩に対し、
朝廷は激励の為に勅使正親町公董を派遣。
文久3年7月16日に勅使は下関に到着し、
白石正一郎邸に入ります。
宿陣の幹部らは白石邸に参謁し、
朝廷の激励の言葉を賜りました。

翌日勅使一行は各砲台を視察。
迎砲の発射、西洋銃陣や射的、
槍や剣の試合の披露も行います。
勅使正親町公董はこれに満足し、
その日の宿所長府へ向かいました。… 続きを読む

下関市吉田 東行庵/壬戌丸水夫の墓

奇兵隊顕彰墓地にある壬戌丸水夫の墓碑。
文久3年5月10日。
長州藩は米商船ペンブローク号を砲撃し、
これを周防灘へ逃走させています。
この報告を聞いた米公使R.H.プリュインは、
軍艦ワイオミングマクドガル艦長と共に、… 続きを読む

山口県萩市 唐人墓

享保11年(1726)8月7日。
永代家老益田家の領地須佐湾唐船が出現。
長州藩は交渉の末に密貿易船と判断し、
これに攻撃を加えて沈めています。
長州藩の異国船討ち払い
唐船の乗組員は全て殺されており、
その遺体は湾内の長浜に埋葬されました。


須佐湾続きを読む

下関市みもすそ川町 壇ノ浦砲台跡

長州藩は来たるべき攘夷戦争に備え、
壇ノ浦から櫛崎の間に砲台を配置。
その中心的なものが前田砲台ですが、
海峡の最も狭い壇ノ浦にも、
壇ノ浦砲台が配置されています。


八十斤加農砲(レプリカ)」。
海峡に向かって並ぶ… 続きを読む