享保11年(1726)8月7日。
永代家老益田家の領地須佐湾に唐船が出現。
長州藩は交渉の末に密貿易船と判断し、
これに攻撃を加えて沈めています。
長州藩の異国船討ち払い
唐船の乗組員は全て殺されており、
その遺体は湾内の長浜に埋葬されました。
「須佐湾」。
須佐湾の海岸線沿いを北上。
変化に富んだ複雑な入江が美しい。
入江は湾内に7つあるとのこと。
複雑に曲がりくねった道を進み、
平島を過ぎた辺りに古い墓地があります。
道路沿いの山手側に並ぶ小さな墓石群。
浦民の墓地だったのでしょう。
現在は地名として残されていませんが、
古地図には[長ハマ]と記されており、
ここに唐人墓が建立されました。
「三界萬霊(唐人墓)」。
天保8年(1837)に建立されたもので、
唐人達の霊を慰める為の供養墓という。
防長風土注進案の須佐村古墳の項に 、
「享保十一年丙午の八月七日、
唐船壱艘当浦に入津仕候ニ付
同九日之晩より十一日江
うち払被仰付候処、
其後祟りをなし候故
霊神を御祭被仰付候事」とあり、
周辺海域で事故が多発した為に、
これを祟りであるとしてこの墓を建立し、
殺された唐人を供養した模様。
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