白石正一郎日記には文久3年4月27日昼。
久坂玄瑞ら30人余の志士がやって来て、
竹崎の長泉寺に宿泊したいというので、
取り計らったと記されてます。
志士達は5月4日まで長泉寺に宿泊し、
その後に細江の光明寺へ転陣しました。
この連中が光明寺党です。
彼等は攘夷戦の急先鋒となるわけですが、
結果は御存じのとおり。
彼らは奇兵隊前身とされる事が多く、
説明の内容は、
「久坂玄瑞は各地の浪人などを引き連れ、
下関に入って長泉寺を宿舎にしましたが、
後に細江の光明寺に移りました」
となっています。
光明寺は先の大戦での空襲でも焼けず、
今も当時の本堂が残されていますが、
ではその前の長泉寺はというと、
ネット上では殆ど触れられておらず、
現在の竹崎町には長泉寺はありません。
範囲を広げて下関市内で見てみると、
下関市立大学のある大学町に、
長泉寺という寺院がありましたが、
あまりにも竹崎町とは遠い場所ですし、
同名の寺なんてよくある話ですし、
※光明寺は下関に5つもある。
いくら長泉寺という寺名だからって、
実際に関係あるかどうかわからない。
仕方ないので図書館の古地図で調べると、
竹崎町に長泉寺がありました!
「明治三十三年下関市街旅客案内図」より。
確かに長泉寺です。
図書館で散々調べた結果、
この長泉寺が大学町に移転したようです。
駅前の開発、埋め立て等の為、
大学町に移転したのでしょうね。
いつ大学町に移転したのかは、
図書館ではわかりませんでした。
※追記:現在の住職様より、
昭和22年に近隣の火災で焼失し、
土地開発で移転したと教えて頂きました。
で、現在はどうなっているのか?
現在の地図と重ね合わせてみます。
埋め立てされてて様子がまるで違いますが、
道を重ね合わせたりすると、
なんとなく位置が見えてきます。
このあたりが長泉寺のあった場所。
現在はパチンコ店になっています。
光明寺党は奇兵隊の創設に関わった者達が、
その殆どを占めています。
そういう面から高杉晋作が作った奇兵隊は、
久坂が基礎を作ったという人がいますが、
光明寺党は志士らの集まりなだけで、
その考えは的を得ているとは言い難い。
実際にそういう志士らの集まりは、
幕末の日本に多く存在していましたが、
それは単に政治結社であり、
アマチュアサークルのようなもの。
それをプロ軍隊としたことが重要で、
全国諸藩に多数結成された〇〇党、
〇〇組等の政治結社と奇兵隊が違うのは、
アマがプロがという事なのです。
※新選組や新徴組などはプロ集団です。
とはいえ参加メンバーを見ると、
奇兵隊の前身であることに間違いはなく、
光明寺党の存在なく奇兵隊は語れません。
そんな光明寺党最初の宿泊地長泉寺。
「長泉寺跡」の碑を建てるべきですよね。
■関連記事■
・中山忠光①/②/③/④/⑤/⑥
光明寺党は中山忠光を盟主としています。
・下関市新地町 妙蓮寺/中島名左衛門の墓
光明寺党は中島名左衛門を暗殺しました。
検索からたまたま、こちらのブログへと参りました。
当山は、昭和22年1月近隣からの火災が燃え移り焼失したと父や祖母より聞いています。再建をしようと思うも土地開発等の問題があり、大学町へと移転する事となったようです。
>長泉寺住職です。様。
ご訪問ありがとうございます。
そうでしたか、火事で焼失してしまったのですか!
昭和22年ならば戦後ですね。
もしかしたら空襲で焼失かな?とも思っていましたが、そうではないのですね。
大学町は結構遠いので、移転の際には色々大変だったのではないでしょうか?
光明寺党という歴史的にも知られる団体の前身が宿泊したお寺ですので、
個人的には市などが碑や説明板でも設置したらいいのにと思っています。
(現在の土地の所有者とかの同意が必要でしょうけど・・)
趣味で全国の史跡巡っていますが、観光に力を入れている自治体は、
そういうことをしています。下関は歴史的な史跡は多いのですが、
どちらかというと深く掘り下げてはいないですね。
また、是非ともご訪問の程、よろしくお願いいたします。