肥中港は特牛港の北側の湾にある港で、
小さな漁村といった雰囲気の港です。
豊北町大字神田肥中(肥中港の場所)
この小湊が歴史上重要な場所であった事は、
一般にはあまり知られていません。
大内氏時代より朝鮮貿易の為に整備され、
鎖国後も密貿易の拠点であったとされます。
北浦の隠れた場所でありながら、
肥中街道により山口にも結ばれており、
輸送にも大変優れた場所でもありました。
肥中街道の石畳。
僅かながら残る肥中街道の石畳。
「旧酒田家住居」。
現在も民家のようですので遠巻きに撮影。
廻船問屋酒田家の屋敷だった建物です。
薩摩藩と海援隊の仲介により、
英商人グラバーからゲーベル3000挺を購入。
長崎から肥中港へと密かに運ばれました。
この受け取りに大村益次郎、伊藤春輔らが、
1万5000両を持って出張し、
酒田家に千両箱が大量に運び込まれて、
武器代金の支払が行われました。
その際には千両箱の重みで座敷が抜け落ち、
急遽座敷を厚板に取り変えたという。
「恩徳寺参道」。
港を一望できる場所に立つ恩徳寺へ。
恩徳寺は大内義隆夫人が建立した寺院で、
縁結びの[結びイブキ]があります。
※[結びイブキ]の写真は撮り忘れました。
「恩徳寺本堂」。
屋根には穴が開き今にも崩れ落ちそう。
ロープが張られ進入禁止となっていました。
崩壊の恐れで危険ということでしょうか?
建て替えとか補修などの予定はあるのかな?
「船究番所跡」。
恩徳寺墓地の手前の更地が船究番所の跡。
北浦巡視で吉田松陰もここを訪れており、
役人の大田要蔵と夜明けまで話しました。
※記事はこちら。
船究番所跡からは肥中湊が一望できます。
この小さな湊から陸揚げされた武器で、
長州は数倍の幕府軍と戦いました。
■赤間関街道/萩往還の宿場町
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吉田松陰も見学した珍しい岩。