県中部の諏訪盆地に位置する諏訪湖では、
かつては冬に全面凍結していたようで、
その凍結した湖面に亀裂が走って、
それがせりあがる現象が発生していました。
これを[御神渡り]と呼び、
その亀裂を記録した御渡帳と照らして、
その年の天候や農作物の出来、
世相などを予想する拝観式が行われました。
近年は温暖化で氷結しなくなりましたが、
寒くて湖面が凍った年には、
今も[御神渡り]が発生するようで、
現在も宮内庁と気象庁に報告しています。
周辺には諏訪神社の総本社諏訪大社があり、
諏訪湖の南に上宮二社(本宮、前宮)、
北に下宮二社(春宮、秋宮)が鎮座。
御神渡りは上宮の祭神建御名方神が、
下宮の祭神八坂刀売神に会いに行った際に、
その痕跡がついたものとされます。
代々諏訪大社の大祝を務めてきた諏訪家は、
神官ですが武士として諏訪神党を率い、
諏訪湖の周辺地域を治めました。
隣国武田家は代々諏訪上宮の檀那ですが、
武田信玄は諏訪に侵攻して諏訪家を滅ぼし、
この諏訪家を再興する為に、
諏訪家の娘を側室に迎えて、
この側室から諏訪四郎が生まれます。
これが武田家の次代当主武田勝頼で、
勝頼は本来諏訪家を継ぐ予定で、
名に武田氏の通字[信]ではなく、
諏訪氏の通字[頼]が使いました。
しかし嫡男武田義信は謀反で切腹となり、
次男竜宝は盲目、三男武田信之は夭逝し、
勝頼が武田家を継ぐ事になっています。
武田家の興亡に際して、
諏訪家は諏訪大社の大祝に専従し、
天正壬午の乱に乗じ諏訪頼忠が旧領を奪還。
徳川家康の配下となり諏訪を離れますが、
関ヶ原の戦い後に次代諏訪頼水が旧領復帰。
以後の諏訪家は大名家と大祝家に別れ、
江戸時代を通じて諏訪地方を治めています。
上諏訪周辺(高島城の場所)
[諏訪の浮城]と呼ばれた高島城ですが、
現在は湖岸から遠く離れています。
「三の丸温泉跡」。
7代諏訪忠粛が下鶴沼に湧き出た温泉を、
木管で引いて造らせたもの。
始めは藩主専用の温泉でしたが、
後に藩士達も入るようになり、
維新後は一般も入浴できるようになります。
平成8年まで共同浴場があったそうですが、
諏訪市の温泉統合により廃止されました。
現在もわずかながら温泉を引いており、
手水鉢に注ぐ暖かい温泉水が、
当時の面影をしのんでいます。
「冠木橋と冠木門」。
高島城本丸の本丸大手門。
本丸大手門は冠木門と呼ばれていますが、
冠木門は柱に一本の貫を通したもので、
関所などに設けられるような門です。
絵図には楼門又は高麗門が描かれており、
はじめ冠木門として建てられた後、
名称だけが残ったのでしょう。
現在の門は昭和45年の再建ですが、
建築史家大岡實によって楼門なっています。
実際は一重の棟門又は薬医門だったという。
「高島公園」。
本丸内は高島公園として整備されています。
訪問時は桜が満開となっており、
地元の花見客で賑わっていました。
良く整備された良い公園です。
「高島城天守閣」。
明治4年に撮影された3枚の写真と、
江戸期の絵図を元に再建されたもの。
瓦を載せない柿葺に見立てた銅板葺と、
板張りの壁面が特徴的で、
全体的に茶色いイメージの天守。
ほぼ当時の姿を模していますが、
鉄筋コンクリート製の外観再建の天守で、
窓の数など若干の違いはあります。
中は天守閣資料館。
「川渡門跡(三之丸御殿裏門)」。
本丸西側の門で諏訪湖に面していた当時は、
ここから舟に乗る事が出来たらしい。
現在は三之丸御殿の裏門が移築されており、
廃城で払い下げられて移築していたものを、
所有者からの寄進で再移築されたという。
「諏訪護国神社」。
諏訪出身の英霊を慰霊する護国神社。
「角櫓」。
天守閣と共に再建された角櫓。
簡単な絵図しか残っていなかったらしく、
詳しい構造などは全くわかっていないので、
推測で再建されたらしい。
本丸を出て西側より撮影した天守。
前日は他所で葉桜を見てましたので、
満開時期に訪問できたのは良かったです。
それだけ寒い地域ということでしょう。
やはり諏訪湖は見ておかねばと湖畔へ。
「諏訪湖」。
信玄の遺体は諏訪湖に沈められたという。
もちろん残念ながら俗説ですが、
信玄は遺骸を湖に沈めるよう遺言しており、
諏訪湖への思い入れは強かったのでしょう。
アニメ[君の名は。]では、
物語に登場する街の参考となったらしい。
「八重垣姫像」。
湖面に浮かぶように設置された女性の銅像。
ブロンズ製のようです。
信玄側室諏訪御料人の像かと思ったら、
浄瑠璃の演目[本朝廿四孝]の人物で、
武田勝頼の許嫁八重垣姫の銅像らしいです。
幕末の高島藩ですが、
9代藩主諏訪忠誠は幕政に参加し、
老中にまで昇進した逸材。
天狗党の乱では家老千野兵庫率いる藩兵が、
隣国の松本藩兵と共に、
和田峠で天狗党を迎え撃ちますが、
双方とも多数の死者を出し突破されます。
天狗党の怪僧不動院全海はこの戦いで討死。
従軍していた高島藩士北沢与三郎は、
討死した僧兵が不動院全海だと知り、
肉を持ち帰って味噌漬けで食べたという。
今の感覚からすると野蛮と思える話ですが、
強者にあやかりたい一心だったのでしょう。
慶応元年には将軍徳川家茂上洛に反対して、
忠誠は老中を罷免されています。
後の鳥羽伏見の戦い後に新政府に恭順し、
東山道先鋒総督府軍と合流して、
甲州勝沼の戦いに参戦しています。
以後は北越戦争、会津戦争に藩兵を派遣。
論功行賞で賞典金2千両を賜りました。
【高島藩】
藩庁:高島城
藩主家:諏訪家
分類:2万7000石、譜代大名
■関連記事■
・長野県松本市 松本城
高島藩は松本藩と共に天狗党を迎撃。
・天狗党の終焉①
その後、天狗党は敦賀で降伏。
・長野県伊那市 高遠城跡
隣藩の高遠藩内藤家の居城跡。