丸岡城天守は全国12棟ある現存天守ひとつ。
柴田勝家の甥柴田勝豊によって築城され、
勝豊が清州会議で長浜城に移ると、
同じく勝家配下の安井家清が丸岡城へ入城。
賤ヶ岳の戦いで柴田家が滅びると、
越前国は丹羽長秀の所領となり、
丸岡城には長秀配下の青山宗勝が入りますが、
宗勝は関ヶ原の戦いで西軍に属した為に改易。
越前国は結城秀家の所領となり、
丸岡城は家臣の今村盛次に与えられましたが、
盛次は越前騒動により失脚。
代わって附家老本多成重が入っています。
その後福井藩2代藩主松平忠直が、
不行跡による厳封処分となった為、
本多成重は一旦幕府に戻されて、
改めて丸岡4万6300石が与えられて独立。
譜代大名丸岡藩本多家が成立しました。
丸岡城へは福井駅からバスに乗って45分。
京福バス丸岡線の終点丸岡城で下車すぐ。
築城400年に日本庭園式公園が造られており、
ゆかりの品を展示した資料館もあります。
「丸岡城八幡神社」。
築城時に建立された城の鎮守社。
廃藩置県後に丸岡城が廃城となった後、
地元信徒がささやかに祀っていましたが、
その社殿は老築化していたようで、
丸岡城復興の残材で社殿が再建されています。
丸岡城天守への入場料を購入。
丸岡歴史民俗資料館と、
日本一短い手紙の館のセットです。
しおり(織ネーム?)付で450円。
日本一短い手紙は本多成重の父本多重次が、
陣中に妻に送った短文の手紙の事。
「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」
訳:一筆申し上げる。火に用心せよ。
仙千代を大切に育てよ。
軍馬を痩せさせるな。
短い文章に要点が詰まった名文です。
天守は入場券売場から登ってすぐ。
・・・の前に、天守周辺の石碑を拝見。
丸岡城にはいくつかの石碑があります。
「瓦石合屋文仲君碑」。
丸岡藩藩医であった合屋文仲の顕彰碑。
彼の開発した[イバラキ膏薬]は、
丸岡の名産として全国に知られていたようで、
薬を求める人が後を絶たなかったとの事。
どんな薬かはよくわかりませんが、
膏薬なので傷薬か皮膚炎の薬でしょうね。
維新後は東部医務締や衛生会頭となり、
私塾成美堂を開いて子弟教育にあたりました。
「お静慰霊碑」。
築城の際に人柱となったお静の慰霊碑とお堂。
城下に住む片目の未亡人お静は、
息子の士分取り立てを条件とし、
人柱を買って出たのですが、
程なく柴田勝豊が長浜城に移封となった為、
息子の士分取り立てはうやむやとなります。
これに人柱となったお静が大蛇となって現れ、
丸岡に大雨を降らせたという。
これ以降毎年4月に大雨が降るようになり、
お堂を建立してその霊を慰めました。
慰霊碑は復興時に新しく建てられたもの。
「緑陰翁之碑」。
丸岡藩士町原貞煕の顕彰碑。
町原は丸岡藩の尊皇攘夷派でしたが、
藩論が佐幕となった為に、
蟄居処分となって自宅で軟禁されています。
維新後は小浜伝習学校の教師となりました。
「丸岡城天守」。
現存する最古の天守とされていましたが、
現在は6番目に古い天守となっています。
丸岡藩廃藩と同時に廃城となって、
天守以外は全て解体されていますが、
丸岡町が天守を買い戻して保存しており、
戦前には国宝となっていました。
しかし昭和23年の福井地震で倒壊し、
その修復は昭和30年になってから。
独立式望楼型2重3階建の天守で、
板張の外壁が特徴となっています。
天守内にある丸岡城の模型。
現在の丸岡城は堀が完全に埋められており、
天守のある本丸跡のみとなっていますが、
かつてはこのような広い堀を持つ城でした。
丸岡藩は初代藩主本多成重から、
2代、3代と藩政に力を注ぎましたが、
4代本多重益は暗愚でだったとされます。
その結果、重臣達の派閥争いが起こり、
これを幕府が問題視して重益は改易。
代わって有馬清純が糸魚川藩から入封。
2代有馬一準が外様から譜代大名に昇格し、
以降は老中等の要職に就任しており、
この事から幕末期には佐幕を貫いたようです。
※2021/03/30:写真更新および文章修正。
【丸岡藩】
藩庁:丸岡城
藩主家:肥前有馬家
分類:5万石、譜代大名
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