津山城は津山藩の藩庁。
美作国は領主が幾度も代わった地で、
小早川秀秋の領地でしたが、
秀秋の死で小早川家が無嗣改易となり、
川中島藩より森忠政が入封します。
忠政は新たな居城の建設を計画し、
築城場所をめぐって家中で騒動が発生し、
暗殺や出奔等の騒ぎが起きています。
紆余曲折を経て鶴山への築城が決定し、
地名を鶴山から津山に改められ、
77の櫓、四重五階の天守を持つ、
広大な平山城である津山城が、
13年の歳月を費やして完成しました。
「森忠政公」像。
津山城を築城した森忠政の銅像。
兄には織田信長の小姓森蘭丸がいます。
忠政自身も信長の小姓となっていましたが、
別の小姓との喧嘩を咎められて帰され、
この事で本能寺の変を免れました。
兄森長可が小牧長久手の戦いで戦死した為、
忠政は森家の家督を相続。
豊臣秀吉より羽柴姓を与えられています。
※長可は忠政への相続を否定していますが、
秀吉はこれを無視しています。
秀吉が死去すると徳川家康に接近し、
石田三成と対立したようで、
関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。
小早川家の断絶で美作国に加増転封となり、
上記のように津山城を築城。
大阪の陣にも参戦して功績を挙げています。
晩年は更なる加増の話もありましたが、
加増前に急死してしまいました。
急死の理由は桃による食中毒との事。
「冠木門跡」。
津山城跡へは300円の入場料が必要。
天守等に入場料が発生する事は、
全国にも多々ありますが、
城の全域に入場料が掛かるって稀です。
維持管理に必要なお金なんでしょう。
「表中門跡」。
冠木門跡より石段を登ると三ノ丸跡。
大きな門跡が現れます。
巨大な渡櫓門が建てられていたという。
ここを登ると二ノ丸跡です。
二ノ丸青は後にまわして三ノ丸跡を散策。
「駒井匏軒頌徳碑」。
津山藩儒臣駒井匏軒の頌徳碑。
表中門跡の右側に建てられています。
津山藩校である文学所の教授を勤め、
兵学に通じ、詩歌や書にも秀で、
明学(廟堂音楽)にも精通しており、
横笛を得意としました。
ペリー来航では鉄砲頭として浦賀へ出張。
長州征伐にも出陣しています。
晩年は私塾で教育に尽くしました。
「鶴山館」。
文学所の新校舎として明治3年に建築。
修道館と名付けられました。
廃藩置県も校舎として使用されており、
明治36年の新校舎の建築に伴い、
三ノ丸跡に移築されました。
鶴山館の名は移築時に付けられたもの。
「贈従四位鞍懸君碑」。
津山藩権大参事鞍懸寅二郎の顕彰碑。
鞍懸は赤穂藩の足軽の出でしたが、
儒学者塩谷宕陰や会沢正志斉らに学び、
赤穂藩で足軽身分ながら勘定奉行に抜擢。
赤穂藩の藩政改革に尽力しますが、
守旧派の妨害で赤穂藩を追放されています。
師の塩谷の斡旋で津山藩領で私塾を開き、
後に津山藩に抜擢されて国事周旋掛となり、
小豆島での英国による島民射殺事件では、
弱腰の幕府にしつこく訴えて、
銀200枚の賠償を得ることに成功。
藩領で起こった改政一揆では説得にあたり、
津山藩の代表として諸事にあたりました。
維新後は権大参事に就任していますが、
明治4年に何者かに狙撃されて死亡。
下手人は捕まっていません。
表中門跡を登って二ノ丸跡へ。
「備中櫓」。
築城400周年を記念して復元された櫓。
初代津山藩主森忠政の長女松姫が、
鳥取藩主池田長幸に嫁ぎ、
その松姫が亡くなると、
四女宮姫も同じく長幸に嫁ぎましたが、
その2人の娘婿である長幸が、
津山城に訪れた時に建てられた櫓で、
長幸の官位が[備中守]だった為、
その名が付いたとされます。
77の櫓を誇った津山城ですが、
現在建っている櫓は復元された備中櫓のみ。
備中櫓を横目に過ぎて本丸跡へ。
「本丸跡」。
広い敷地を有する本丸跡。
本丸御殿が建てられていました。
「太鼓櫓跡」。
東側の石垣に太鼓櫓がありましたが、
現在は鐘堂が建てられています。
太鼓櫓に鐘堂が建てられるケースは、
他の城も結構あります。
櫓だと維持管理が大変なんでしょう。
「天守台」。
五重五階の天守として建造されましたが、
あまりにも立派で幕府に咎められた為、
四重目の瓦を取り外して板葺きにして、
「あれは庇(ひさし)で五重ではない」
と弁明したという。
そういう訳で天守は四層五重となりました。
その天守台にはハートの石があります。
う~ん。ハートに見えない事もない。
こういうの好きな人いますよね。
あ、ウチの娘がこういうの好きだわ・・。
津山城跡は見ごたえのある城でした。
300円取るだけの事はある(しつこい)。
津山城は全景を写した古写真が残っており、
その当時の壮大な様子が伺えます。
津山城を築城した森忠政の森家は、
5代森衆利が乱心したという理由で改易。
後に幕府は隠居していた2代森長継に、
2万石で森家を再興させています。
森家の改易後は松平宣富が津山に入り、
10万石で治める事になります。
※越前松平宗家については論争があり、
この津山藩松平家を宗家とする説と、
福井藩松平家を宗家とする説があります。
家祖結城秀康の長男松平忠直の系譜が、
津山藩松平家である為に、
これを越前松平宗家とする考えと、
福井には忠直の弟松平忠昌が入封し、
この系譜を宗家とする考えがあります。
幕末の京都で長州や薩摩等の外様勢力が、
国事に奔走している事態に、
津山藩の急進派藩士達は憤りを感じ、
津山藩が公武合体を主導しようとします。
そして藩主松平慶倫が周旋のために上洛。
「速やかに掃攘之功を建てよ」と、
勅命を得ました。
とはいえ何か方針があるわけでもなく、
慶倫は帰国願いを幕府に提出しています。
京に残った津山藩兵は幕命を忠実に実行。
周旋には結果が出せなかった慶倫でしたが、
思想としては強硬な攘夷派で、
幕府に攘夷決行を要求しています。
後に八月十八日の政変が勃発し、
京都の政情が切迫すると、
大阪湾警備の藩兵を京都に呼び寄せますが、
諸藩兵が多勢で警備する程でもないと、
大阪湾に兵を返しています。
「政治的センスは無いけど行動派」
といったところでしょうか?
幕末の津山藩といえば、
優れた洋学家を排出したことでも知られ、
特に蘭学の名門宇田川家や藩医家箕作家は、
一族一門に多くの学者を排出し、
その子弟も非常に優秀でした。
現在も津山は洋学のまちとして知られ、
政治的に貢献できなかった津山藩ですが、
近代科学の発展に貢献したともいえます。
【津山藩】
藩庁:津山藩
藩主家:忠直流越前松平家
分類:10万石、親藩大名(国持)
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