岡山藩には3つの支藩がありましたが、
3藩共に藩庁は置かれずに、
藩主は岡山城下に居住していたようで、
藩名はどれも岡山新田藩でした。
3藩のうちの1つは早期に廃藩しましたが、
他の2藩は廃藩置県まで存在し、
維新後に藩庁を置いて、
それぞれ生坂藩、鴨方藩となっています。
そのひとつ鴨方藩の陣屋跡を訪問。
「かもかた町家公園」。
岡山新田藩(鴨方藩)は藩庁はありませんが、
年貢や税徴収を行う御用場が設置され、
鴨方と岡山城下を結ぶ鴨方往来が、
賑わいを魅せていました。
庄屋で油商も営む旧高戸家の屋敷跡は、
かもかた町家公園として整備されています。
「鴨方陣屋跡」。
御用場は代官所のようなものでしたが、
維新後に陣屋が造営され藩庁となりました。
跡地は黒住教教会と長川寺の敷地の一部で、
遺構として石垣が残されています。
政言流岡山新田藩(鴨方藩)は、
岡山藩3代池田光政の次男池田政言が、
兄で4代藩主の池田綱政より、
2万5000石を分与されて立藩し、
以後10代まで続いていますが、
何度も断絶の危機がありました。
6代藩主池田政養の死後に、
池田政共が7代藩主となりますが、
政共は19歳で早逝してしまい、
8代は同母弟の池田政広が継ぎます。
しかし政広も病弱で藩政もままならず、
元服まで生きられるかも危ぶまれる状況。
そこで異母弟池田虎吉が政広にすり替わり、
政広となった後に将軍に御目見しました。
これが2人目の8代藩主池田政善で、
実際は9代藩主なのですが、
幕府の記録としては8代とされています。
これで断絶の危機からは脱したのですが、
その次代にも危機が訪れました。
8代政善は岡山で死去しますが、
世子池田政樹は病弱であり、
到底藩主は努められないだろうとされ、
政善が生きていることにして、
政樹の敗着願を幕府に提出し、
縁戚の人吉藩相良家より末期養子を迎え、
そのうえで政善の死亡届を提出しました。
こうして藩主になったのが9代池田政詮で、
後に岡山藩10代池田章政となっています。
岡山藩9代池田茂政は徳川慶喜の実弟で、
慶喜の追討令が新政府から出された際に、
兄を討つに忍びないと隠居した為に、
支藩の政詮が宗家を継いで章政と改名し、
岡山藩10代藩主となりました。
藩主が不在となった政言流岡山新田藩は、
政詮の子池田政保が継ぎ、
維新後に藩庁を置いて鴨方藩となりますが、
明治4年の廃藩置県で鴨方藩は消滅し、
鴨方県となっています。
【鴨方藩】
藩庁:鴨方陣屋
藩主家:政言流池田家
分類:2万5000石、外様(岡山藩支藩)
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