秋田県秋田市 久保田城跡②

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つづき。

本丸中央に佐竹義堯の像が建てられています。

佐竹義堯公銅像」。
久保田藩12代藩主佐竹義堯の銅像。
相馬中村藩藩主相馬益胤の三男に生まれ、
久保田新田藩藩主佐竹義純の養嫡子となり、
義純の隠居に伴い家督を相続しました。
安政4年に宗家11代佐竹義睦が死去した為、
末期養子として12代藩主に就任。
※新田藩主は実弟の佐竹義諶が相続。
慢性的な財政難にあえぐ藩財政を鑑み、
自ら率先して質素倹約に努めたという。
藩には勤皇思想を持つものが多く、
その指導者吉川忠行忠安親子の意見を容れ、
新政府に恭順して秋田戦争に突入。
新政府軍の援軍を得て勝利しました。
面白い逸話としては継室を娶る際、
篠山藩藩主青山忠良の姫に惚れ込み、
継室に迎えることを決めましたが、
嫁いできた姫は別人の醜女だったという。
どういうことかと篠山藩に問い合わせると、
娘が醜く縁組がなかなか決まらないので、
替え玉に美女を立てたのだとわかった。
仕方なくこの姫を継室としますが、
理由をつけてすぐに離縁したとのこと。
この話は幕末百話の話ですので、
本当かどうかは定かではありません。
明治17年、死去。


本丸内には小川が流れており、
結構な水量がありました。
辿ってみるとなんとが!
元をたどるとどうもポンプっぽい。
湧き水を期待したんですけど・・・。


御隅櫓」。
城のシンボルである復元された御隅櫓
実際は二階櫓だったようです。

裏門跡から本丸を出て再び二ノ丸へ。

裏門跡からの二ノ丸の胡月池
数々の城跡を公園化した長岡安平が築造。


狩野旭峰翁頌徳碑」。
大館城城代狩野良知の実弟狩野旭峰の碑。
兄と共に佐竹西家に仕え、
江戸に出て儒学者塩谷宕陰を師事。
古賀謹一郎藤森弘庵田口江村らにも学び、
江戸藩邸の学問所日知館教授を務めています。
明治7年に遐邇新聞の編集長となり、
秋田や山形の報道に関わりました。
後に私塾酔経学舎の初代学長に就任した他、
文芸誌棣華先憂文編も刊行しています。
大正14年、死去。

二ノ丸の奥(北側)へ。

彌高神社」。
平田篤胤および佐藤信淵を祀る神社。
明治14年に日吉神社の境内に、
篤胤を祀る平田神社が創建されており、
後に佐藤信淵を合祀して彌高神社と改称。
大正5年に現在地に遷座しています。

久保田藩は新政府側についていますが、
藩論が定まっていた訳ではありません。
奥羽鎮撫総督九条道孝が領内へ到着した際、
勢いづいた藩内勤皇派が仙台藩の使者を殺害。
新政府軍に組するを得なくなります。
秋田戦争では盛岡藩庄内藩の猛攻を受け、
領内の多くは戦火に包まれますが、
新政府軍の援軍を得てなんとか勝利。
しかし多大な犠牲を払って得られたのは、
新政府からの賞典禄2万両のみでした。

【久保田藩】
藩庁:久保田城
藩主家:佐竹家
分類:20万石、外様大名(国持大名)

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