青森から宮城への仕事の移動日。
途中にある世界遺産の平泉へ。
世界遺産は胡散臭いと再三書いていますが、
その割に結構足を運んでいます。
世界遺産にはやはり国宝や重文も多いので、
必然的に訪問する事に。
もちろん胡散臭いとはいえ、
日本文化を世界に紹介できるのは良い事で、
それに世界遺産が貢献している事は、
決して悪い事ではありません。
「源義経衣川古戦場跡」。
平安時代後期の東北地方一帯は、
奥州藤原氏による統治が行われており、
平泉はその本拠地でした。
奥州藤原三代と呼ばれる初代藤原清衡、
2代藤原基衡、3代藤原秀衡が治めて繁栄。
中央の政争とは無縁であったようですが、
平治の乱に敗れた源義朝の子源義経を匿い、
後に源頼朝に追われた義経を再び匿います。
秀衡は頼朝の勢力拡大を懸念し、
4代藤原泰衡に義経を将軍として立て、
頼朝に対抗せよと遺言していますが、
泰衡は頼朝の義経追討要請に抗いきれず、
10数騎の義経勢を500騎で襲い、
義経を自害させています(衣川の戦い)。
「武蔵坊弁慶之墓」。
表参道入口の前にある武蔵坊弁慶の墓。
大きな墓碑は最近建てられたもので、
写真右奥のこんもりとした塚が、
弁慶の墓であると伝えられています。
弁慶を知らない人はいないでしょうが、
五条大橋で牛若丸(後の義経)と出会い、
付き従って平家追討に参加し、
義経が泰衡に討たれる際には、
館を守って立ったまま戦死したとされます。
※弁慶の立往生。
これより中尊寺へ。
入口こそ急な坂ですが、
先はそれ程でもありません。
参道は綺麗に整備がいき届いていて、
コンクリートやアスファルトになっており、
石段のような歩きにくい道はない。
誰でも参拝できるようになっていますが、
少し物足りない気もします。
「弁慶堂」。
参道には諸堂が点在しますが、
その中のひとつである弁慶堂が人気の様子。
勝軍地蔵菩薩を祀ったお堂ですが、
弁慶と義経の木像が安置されており、
弁慶堂という通称で呼ばれています。
「中尊寺本堂」。
元々は慈覚大師による開山が始まりとされ、
藤原清衡が中興したのが事実上の創建。
最初院又は多宝寺と呼ばれていました。
東北に勢力を誇った奥州藤原氏に庇護され、
奥州藤原氏滅亡後も頼朝の庇護を受けますが、
かつての隆盛には程遠かったようです。
この本堂も建武4年(1337)に焼失しており、
金色堂を残してほぼ全焼したという。
江戸時代は仙台藩の庇護を受けるようになり、
諸堂が少しずつ再建されていますが、
本堂の再建は明治42年となりました。
そしてメインイベントの金色堂へ。
「金色堂」。
金色堂は風雨から保護する為の覆堂の中。
覆堂内の撮影は禁止でした。
金色堂は藤原清衡により建立され、
内外共に漆塗りの上に金箔が貼られており、
漆蒔絵や螺鈿細工等の装飾が施されています。
須弥壇内には、清衡、基衡、秀衡の遺体と、
泰衡の首級が納められていますが、
これらはミイラ化しており、
学術調査も行われました。
覆堂内の撮影は禁止でしたが、
出口より少しだけ撮影ができます。
金色堂は鉄筋コンクリート造の覆堂に覆われ、
更にガラスケースに納められて、
温度や湿度が調整されています。
これは最近の話ではなく鎌倉将軍の命により、
保護の為に木製の覆堂で覆われた事が最初で、
長い年月を経て昭和40年に、
現在の覆堂に変更されています。
「旧覆堂」。
そしてこれが金色堂を守ってきた旧覆堂。
昭和の大修理の際にその役割を終えて、
現在の覆堂が建てられて移築されました。
「能楽殿」。
伊達家によって再建されたもののひとつ。
嘉永6年の再建とのことですから、
13代伊達慶邦の治世という事になります。
世界遺産の構成資産としては、
中尊寺の他に毛越寺、観自在王院跡、
無量光院跡、金鶏山となっていますが、
時間的な制限で全ては巡れませんでした。
幕末史に関連するものを探しましたが、
仙台藩が幕末期に再建したという程度で、
何も見つかりません。
そこで最後に下関にゆかりある義経のお堂へ。
偶然ですがそこで幕末に関係する碑を発見。
「頼三樹三郎歌碑」。
頼三樹三郎は頼三陽の三男で、
幕府の朝廷軽視の政策に異議を唱えた為、
幕府の目を避けて東北に遊学しました。
平泉を訪れた際に詠んだ詩が刻まれ、
落日の感動を詠んだもの。
遊学から帰った三樹三郎は尊攘運動を行い、
安政の大獄によって捕縛され、
伝馬町で橋本佐内らと斬首されています。
「高館義経堂」。
源義経を祀るお堂。
藤原基成の館が建っていた場所で、
義経が泰衡に襲撃された際に逃げ込み、
妻娘を殺害した後に自刃したとされています。
後に仙台藩4代藩主伊達綱村が義経を偲び、
この義経堂を建てたようです。
「源義経公供養塔」。
お堂の傍らにある義経の供養塔。
これは昭和61年に建てられたもの。
※義経の800回忌に建立。
松尾芭蕉はこの高舘に登った際に、
義経と藤原三代を偲び、
「夏草や 兵共が 夢の跡」
という有名な句を詠んでいます。
吉田松陰も東北遊学で中尊寺を訪れており、
杉の木が茂って赴きある静けさであると、
※原文:杉樹蓊翳頗有幽邃之致。
中尊寺の感想を述べている他、
当時は18の坊があったと記しています。
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