石川県金沢市 加賀藩前田家墓所②

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つづき。


正四位下行左近衛権少将兼筑前守
          菅原朝臣光高之墓」。
3代前田光高の墓。
2代前田利常の長男として生まれ、
父の隠居によって家督を相続し、
弟2人に富山藩大聖寺藩を分与。
将軍徳川家光の養女大姫を正室に迎え、
徳川家との結びつきを強くしていますが、
大老酒井忠勝の茶会の席で急死しています。


参議贈従二位行左近衛権中将兼肥前守
          菅原朝臣綱紀之墓」。
4代前田綱紀の墓。
父光高の急死で僅か3歳で藩主に就任。
藩政は祖父の2代利常が後見します。
成長して自らが藩政を担うことになると、
新田開発や農村制度の整備、御小屋の設置、
家中職制制定、学問の奨励、
領地紛争解決など、
数々の任政を行って名君と呼ばれました。


参議正四位下行左近衛権中将兼加賀守
          菅原朝臣吉徳之墓」。
5代前田吉徳の墓。
家格の高さゆえに出費の多かった加賀藩は、
次第に財政の悪化へと向かっており、
吉徳はこれを打開する為に大槻伝蔵を登用。
倹約令、新税制定、米相場投機の改革など、
財政改革に成功しています。


正四位下行左近衛権中将兼加賀守
          菅原朝臣宗辰之墓」。
6代前田宗辰の墓。
吉徳の死後の家督を継いでいますが、
僅か2年後に急死しています。


正四位下行左近衛権中将兼加賀守
          菅原朝臣重熙之墓」。
7代前田重熙の墓。
兄の宗辰が早世した為に家督を相続。
先々代の財政改革に関わった大槻伝蔵は、
5代吉徳の死後に失脚していましたが、
重熙の生母浄珠院毒殺未遂事件が発生。
これが吉徳の側室真如院の犯行とされ、
真如院が大槻と密通していたと発覚します。
※これは門閥派の陰謀と云われています。
これが加賀騒動と呼ばれる事件で、
大槻は自害、真如院は幽閉されていますが、
重熙は事件の5年後に死去。
藩内は騒動の余波で混乱が続きました。


正四位下行左近衛権少将兼加賀守
          菅原朝臣重靖之墓」。
8代前田重靖の墓。
兄重煕の死によって家督を継ぎますが、
同年の国入りの道中で麻疹を患い、
金沢に到着後すぐに死去してしまい、
弟の前田重教が跡を継ぐことになります。


正四位下行左近衛権中将兼肥前守
          菅原朝臣重教之墓」。
9代前田重教の墓。
相次ぐ兄達の死によって家督を相続。
連続する藩主交代で財政は悪化し、
更に城下に大火が発生しています。
財政難の中でも寺社の保護を積極的に行い、
多くの寺社を再建、造営しました。
またの普及にも貢献しています。

つづく。
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