①/②/③
つづき。
「参議従三位行左近衛権中将兼肥前守
菅原朝臣治脩之墓」。
10代前田治脩の墓。
5代前田吉徳の十男として生まれ、
藩主の子でありながら僧籍に入り、
闡真と称して勝興寺で修行していましたが、
兄達は相次いで早逝してしまい、
9代前田重教が家督を継いだ際には、
重教と九男前田利実そして闡真だけになり、
そして利実も早逝するに至って、
重教は闡真を還俗させて養嫡子とし、
重教の隠居により家督を継いでいます。
「正四位下行左近衛権中将兼肥前守
菅原朝臣斉広之墓」。
11代前田斉広の墓。
重教は治脩に家督を譲って隠居しましたが、
重教の長男前田斉敬、次男前田斉広が誕生。
治脩は長男斉敬を養嫡子としますが、
夭逝した為に次男斉広を養嫡子とし、
斉広が家督を継ぎました。
後に斉広の嫡男前田斉泰が誕生し、
長く続いた養嫡子の連鎖が終わり、
やっと嫡男が家督を継ぐことになります。
「正二位前田斉泰之墓」。
12代前田斉泰の墓。
斉広の隠居によって家督を相続し、
将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えました。
この斉泰の時代に幕末に突入。
黒羽織党を登用して藩政改革を進め、
産業及び流通政策、海防政策を行いますが、
黒羽織党に批判が殺到した為に更迭。
守旧派からなる藩政改革に着手しますが、
飛越地震や凶作、米価の急騰が相次ぎ、
大規模な打ちこわしが起こっています。
元治元年には継嗣前田慶寧を上洛させ、
御所の警備に当たらせていましたが、
慶寧は禁門の変で出陣を拒否し、
近江国梅津の飛地に退去しました。
これに斉泰は激怒して慶寧を謹慎処分とし、
加賀元治の変で勤皇派を粛正。
これが人材の枯渇に繋がります。
「贈従二位前田慶寧之墓」。
13代前田慶寧の墓。
勤皇思想を持つ慶寧は勤皇派に慕われ、
長州藩とも親しく八月十八日の政変後は、
双方の周旋を行っていますが失敗。
もはや開戦が避けられぬ状態となると、
在京家臣を集めて今後の議論がなされます。
長州と共に戦おうとする意見と、
幕府に従って御所を守ろうという意見、
中立で割拠しようという意見に分かれ、
最終的に中立の立場で京から退去しました。
この件で藩主斉泰が激怒し謹慎処分となり、
後に勤皇派の粛正行われています。
慶応元年に謹慎を解かれて、
翌年に家督を相続。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩を非難し、
旧幕府方として京都への派兵を決めますが、
戦いが新政府の勝利で終わった為、
小松まで進んだ軍勢を引き返しました。
後に恭順して北越戦争に藩兵を派遣。
明治7年、死去。
「従二位勲二等侯爵前田利嗣墓」。
加賀前田家15代当主前田利嗣の墓。
岩倉使節団の留学生として英国に留学し、
帰国後は士族の北海道入植に尽力しました。
明治23年には侯爵議員となり、
後に麝香間祇園候に就任。
北海道石狩平野に農場を作り、
これが現在の札幌市手稲区前田の地名です。
3回に亘り前田家墓所を記事にしましたが、
流石は百万石の墓所というところです。
諸藩の藩主家の墓所を訪問している僕は、
この前田家墓所の凄さがわかりますが、
金沢の人は藩主家の墓はここですので、
他で藩主家の墓を訪問する機会があれば、
びっくりするのではないでしょうか?
そんな事を考えながら墓所を後にしました。
①/②/③
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