石川県金沢市 加賀藩前田家墓所③

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つづき。


参議従三位行左近衛権中将兼肥前守菅原朝臣治脩之墓」。
10代前田治脩の墓。
5代前田吉徳の十男として生まれ、
子沢山ゆえに藩主の子でありながら僧籍に入ります。
闡真と称して勝興寺で修行していましたが、
兄達は相次いで早逝してしまい、
9代前田重教が家督を継いだ際には、
重教と九男前田利実そして闡真だけになっていました。
そして利実も早逝するに至り、
重教は闡真を還俗させて養嫡子とし、
重教の隠居によって10代藩主となっています。


正四位下行左近衛権中将兼肥前守菅原朝臣斉広之墓」。
11代前田斉広の墓。
重教は治脩に家督を譲って隠居していましたが、
その重教の子、長男前田斉敬、次男前田斉広が誕生。
治脩は長男斉敬を養嫡子としますが、
斉敬は夭逝してしまった為に次男斉広を養嫡子とし、
斉広が家督を継ぎました。
その後、斉広の嫡男前田斉泰が誕生し、
長く続いた養嫡子の連鎖が終わり、
やっと嫡男が家督を継ぐことになります。


正二位前田斉泰之墓」。
12代前田斉泰の墓。
斉広の隠居によって家督を相続し、
将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えました。
この斉泰の時代に幕末に突入。
改革派の黒羽織党を登用して藩政改革を進め、
産業及び流通政策、海防政策などを行いますが、
排他的な黒羽織党に批判が殺到した為に更迭。
守旧派からなる藩政改革に着手しますが、
飛越地震や凶作、米価の急騰が相次ぎ、
大規模な打ちこわしが起こっています。
元治元年には継嗣前田慶寧を上洛させ、
御所の警備に当たらせていましたが、
慶寧は禁門の変で病気と称して出陣を拒否し、
近江国梅津の飛地に退去しました。
これを聞いた斉泰は激怒して慶寧を謹慎処分とし、
加賀元治の変と呼ばれる弾圧を行い勤皇派を粛正。
維新後に加賀藩が輩出できない原因となります。


贈従二位前田慶寧之墓」。
13代前田慶寧の墓。
勤皇思想を持った慶寧は加賀藩勤皇派に慕われ、
長州藩とも親しく八月十八日の政変後は、
双方の周旋を行っていますが失敗。
もはや開戦が避けられぬという状態となると、
在京家臣を集めて今後の議論がなされます。
長州と共に戦おうとする意見と、
幕府に従って御所を守ろうという意見、
そして中立の立場で割拠しようという意見に分かれ、
最終的に中立の立場で京から退去しました。
この件で藩主斉泰が激怒して謹慎処分となり、
後に勤皇派の粛正行われています。
慶応元年に謹慎を解かれ、翌年に家督を相続。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩を非難し、
旧幕府方として京都への派兵を決めますが、
戦いが僅か3日で新政府の勝利で終わった為、
小松まで進んでいた軍勢を引き返させました。
その後、新政府に恭順して北越戦争に藩兵を派遣。
明治7年、死去。


従二位勲二等侯爵前田利嗣墓」。
加賀前田家15代当主前田利嗣の墓。
岩倉使節団の留学生として英国に留学し、
帰国後は士族の北海道入植に尽力しました。
明治23年には貴族院設立に伴って侯爵議員となり、
後に麝香間祇園候に任じられています。
北海道石狩平野に農場を作り、
これが札幌市手稲区前田の地名の由来となりました。

3回にわたって前田家墓所を書かせて頂きましたが、
流石は100万石藩主の墓所というところです。
諸藩の藩主家の墓所を訪問している僕は、
この前田家墓所の凄さがわかりますが、
金沢の人からすれば藩主家の墓はここですので、
他で藩主家の墓を訪問する機会があれば、
その小ささにびっくりするのではないでしょうか?
そんな事を考えながら墓所を後にしました。

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