今庄宿は北陸街道の宿場町で、
険しい峠道に向かう旅人はここで備え、
峠道を抜けた者はその疲れを癒しました。
もちろん参院交代でも利用され、
加賀藩、福井藩などの北陸の大藩が、
この今庄宿に宿泊しています。
「今庄宿」。
国道476号線より旧街道に入ると、
現在も宿場町の風景が色濃く残っています。
福井藩の大名行列は福井を早朝に出発し、
今庄宿で必ず一泊しました。
「今庄宿の街並み」。
江戸期に建てられた建物が多く残っており、
ふらふら歩くだけでも楽しい。
元治元年12月9日。
この今庄宿に天狗党がやってきました。
いつも賑わいを見せるこの宿場町でしたが、
人々は災難をさけていち早く非難しており、
宿場は殆ど無人の状態であったという。
「京藤甚五郎家」。
京藤家は酒造業などを営み、
脇本陣にも指定された今庄有数の旧家。
両脇の卯建が特徴の町家です。
※卵建は火災に対する防火設備ですが、
設置にはある程度の財力が必要。
うだつが上がらないの語源。
今庄宿に入る前日に天狗党は池田郷に宿泊。
この日は加賀藩兵700名が宿陣し、
9日朝に北の脇本宿に転陣しました。
※天狗党が魚見峠を越えると予測。
この予想は外れ天狗党は魚見峠を通らず、
杣木俣を通って今庄宿に入っています。
人々は天狗党と加賀藩兵の戦闘が始まれば、
宿場は焼き払われるであろうと噂され、
慌てて家財道具などを持って逃亡。
天狗党が今庄宿に到着したときには、
数人しかいない無人の宿場となっていた為、
天狗党は無人の宿場で休む事になり、
残された食べ物を口にして休息しました。
京藤家には天狗党が付けたという刀傷や、
藤田小四郎の遺墨が残されている他、
上記のように酒造業を営んでいた為、
天狗党はその酒蔵の酒で風呂を焚き、
酒風呂に入ったエピソードも残っています。
「わかさや(旧旅籠若狭屋)」。
現在も残る旅籠の建物。
現在はカフェとなっているようです。
この若狭屋は一般の旅人が宿泊する旅籠で、
食料を持参し薪代などを払う形態でしたが、
交通量が増えて旅籠形式に代わったという。
「今庄本陣跡」。
今庄宿の本陣後藤覚左衛門家跡。
後藤家は福井藩の上領の大庄屋で、
宿場の指導的な立場でした。
福井藩が本陣として利用された他、
天狗党もここを本陣としており、
明治天皇行幸の御在所にもなっています。
「脇本陣跡」。
脇本陣を務めた北村新兵衛低家跡。
加賀藩が参勤で利用していたとされ、
加賀本陣とも呼ばれていました。
これは本陣後藤家が空いていても、
北村家を利用していたという事で、
加賀藩とのパイプが強かったのでしょう。
天狗党は元治元年12月11日まで滞在し、
雪の降る中で天狗党は今庄宿を出発し、
近江へ進路を取り木ノ芽峠へ進みました。
■北陸街道の宿場町
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