長崎県平戸市 雄香寺/平戸藩松浦家墓所(再訪)

雄香寺平戸藩5代藩主松浦棟が、
的山大島の古寺江月庵を移して創建し、
5代以降の歴代藩主の菩提寺となった寺院。


雄香寺」。
前回の訪問時は裏手の墓地側から、
松浦家墓所開山堂のみを訪問。
今回はちゃんと正門から境内へ。
本堂庫裏も新しいようですので、
近代に再建又は改築されたもののようです。


開山堂」。
総丹塗された開山堂で、
通称「赤堂」とも呼ばれています。
堂内には開山盤珪禅師、二世妙光禅師の墓、
開基の5代藩主松浦棟の像と墓、
6代松浦篤信の墓があるようです。
棟は4代松浦重信の長男として生まれ、
父の隠居によって家督を相続。
外様大名初の寺社奉行に就任し、
奏者番も兼務しています。
災害に苦しむ領民の救済に尽力した他、
雄香寺の建立、平戸城の再建に着手。
しかし長年腰痛に苦しんだ他、
正室百姫や嫡子に先立たれる不幸が続き、
弟の松浦篤信に家督を譲って隠居し、
同年に死去しています。


松浦家墓所」。
開山堂の裏手にある松浦家の墓所。
前回も訪問済みなのですが、
11代松浦曜の墓のみを撮影し、
他の藩主の墓はスルーしていたので、
もう一度訪問した次第です。


天祥院殿前肥州太守
 慶巖徳祐大居士 神儀」。
4代藩主松浦重信(鎮信)の墓。
事前リサーチで調べた限りでは、
5代以降の墓所だと思っていましたが、
戒名から4代重信の墓と判明。
本墓は東京都墨田区の天祥寺ですので、
参墓か遺髪墓として建立したものでしょう。
重信は3代松浦隆信の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
同年に島原の乱が発生した為、
原城の総攻撃などに藩兵を派遣しています。
当時の平戸藩はオランダとの貿易を行い、
諸国で最も豊かであったようですが、
これを察知した幕府に貿易が禁止され、
外国貿易は幕府の独占となりました。
この為に一時藩政は逼迫しますが、
新田開発や殖産振興に力を入れて、
財政を立て直して善政を敷いたとされます。
隠居後は曾祖父と同じ鎮信を名乗り、
この名の方が知らており非常にややこしい。
※3代隆信も曽祖父の名を名乗っています。

6代篤信(松英院殿)の墓が見当たらず、
後日松浦史料博物館に連絡すると、
開山堂内にあるとの事でした。


等覺院殿前壹州太守
 天麟英心大居士 神儀」。
7代藩主松浦有信の墓。
6代篤信の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
翌年に病に倒れて急死しています。


誠岳院殿前肥州太守
 英山紹俊大居士 神儀」。
8代藩主松浦誠信の墓。
6代篤信の次男として生まれ、
兄の急死に伴い家督を相続し、
47年の長期間平戸藩を治めました。


豊功院殿静山流水居士
 亮鏡院殿照巖智明大姉
」。
9代藩主松浦清と正室靏年の墓。
嫡嗣であった父松浦政信が早逝した為、
8代誠信の嫡孫となり、
祖父の隠居に伴い家督を継ぎました。
逼迫する藩財政再建と藩政改革に尽力し、
経費節減や行政の効率化に努め、
藩校維新館を創設して人材育成を行い、
ある程度の成功を収めています。
隠居後は静山と号して執筆活動を行い、
有名な甲子夜話剣談を著しました。
ちなみに清の十一女愛子中山忠能に嫁ぎ、
その娘慶子孝明天皇の子を産み、
後の明治天皇となった為、
清は明治天皇の曽祖父にあたります。

10代松浦熈の墓は普門寺


〇臺院殿月鏡智仙大姉
 諦乗院殿前壹州太守

 得脱祥瑞大居士 神儀
 〇心院殿玄室智照大姉
」。
※〇の字は陰になって読めませんでした。
11代藩主松浦曜と正室及び継室の墓。
10代熈の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
海防を重要視して軍制改革に努め、
財政改革にも取り組んでいましたが、
安政5年に病死しています。

これらの藩主の墓所の他、
本覚院殿前壹州刺史・・
政功院殿前壹州刺史・・という墓があり、
松浦史料博物館に問い合わせると、
継嗣のまま早逝した8代誠信の子で、
本覺院殿は長男松浦邦
政功院殿は三男松浦政信のものとの事。

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 前回訪問時の記事。
長崎県平戸市 平戸城
 平戸藩松浦家の居城跡。
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 松陰は葉山左内の蔵書を読破しました。