兵庫県姫路市 御着宿跡

御着宿姫路宿加古川宿間宿でしたが、
本陣も置かれる程大きかったという。
これは御着が古くから栄えていた為で、
奈良時代には播磨国分寺が置かれた他、
小寺政隆の居城御着城が築城されるなど、
播磨国の要所であったようです。


御国野町御着周辺。緑の線が西国街道
青でぼかした辺りが御着宿跡。


御着宿跡」。
古い建屋が残る御着の街並み。
街道沿いの他にも周辺の路地に入ると、
漆喰壁格子窓の民家が点在します。


御着宿 本陣跡」。
御着宿の本陣を務めた天川家邸の跡。
現在は御着老人憩の家になっています。
天川家は御着城城主小寺政職の子の系譜で、
代々大庄屋を務めていました。
30部屋130坪の大屋敷でしたが、
間宿の為に大名の宿泊は行われず、
休憩や昼食に使用されていたようです。


井内家住宅」。
都市景観重要建築物等に指定された建屋。
他にも小原家住宅が指定されています。

街道を離れて御着城跡へ。

御着城跡(姫路市東出張所)」。
御着城の本丸跡には市の東出張所が建てられ、
城を模したデザインとなっています。
播磨守護赤松家の一族であった小寺家は、
姫路城を居城としていましたが、
当主小寺政隆によって御着城が築城され、
政隆は姫路城を嫡子小寺則職に譲り、
自らは御着城に入りました。
しかし赤松家に反抗する浦上村宗との戦いで、
政隆は討死してしまった為、
則職が御着城に入って家督を相続。
播磨国内の国衆と争いを続けた末に、
嫡男の小寺政職に家督を譲っています。
この政職が後の黒田官兵衛考高を厚遇。
自らの従姪光姫を養女として娶らせており、
小寺姓を名乗らせて姫路城代としました。
政職は考高の進言で織田信長に降伏しますが、
荒木村重の離反に呼応してしまった為、
織田勢に攻められて御着城は落城。
※考高は村重を説得しに有岡城に入りますが、
 捕らえられて土牢に幽閉されました。

政職は足利義昭のいる鞆の浦に逃げ、
大名としての小寺家は滅亡。
御着城には蜂須賀正勝入りますが、
まもなく廃城となっています。


黒田家廟所」。
左:前野州太守善岩宗上大禅定門
右:性譽渓翁長壽大姉
福岡藩藩祖黒田如水(考高)の祖父黒田重隆と、
考高の生母明石氏の墓。
この墓所は福岡藩黒田家により、
享和2年(1802)に建てられたもので、
九州からわざわざ資材が運ばれたという。
地元では筑前さんと呼ばれていたようです。
上記のように御着は福岡藩祖ゆかりの地
参勤交代で素通りは出来なかった事でしょう。
47万石の大大名が必ず休憩するのですから、
宿場も大きく潤った事でしょう。

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