長崎県長崎市 本蓮寺

天正19年(1591)、葡国人船長の寄附により、
長崎に日本初のハンセン病病院が建設。
聖ラザロ病院と名付けられ、
聖ジョアン・バウチスタ教会が併設ましたが、
徳川幕府禁教令によってこれらは破却され、
その跡地に日恵本蓮寺を創建します。
日恵は加藤清正より拝領した兜をかぶり、
長崎の住民に日蓮宗を布教したとされ、
後に幕府より朱印状を得た他に、
将軍徳川秀忠より脇差と日蓮上人像を拝領。
以後は長崎三大寺として隆盛しましたが、
※他に曹洞宗晧台寺浄土宗大音寺
原爆によって堂宇は灰塵と化し、
現在の本堂等は後に再建されたもの。
※日蓮上人像は無事でした。


本蓮寺」。
城塞のように険固な雰囲気の参道ですが、
高低差の多い長崎では珍しくはありません。
勿論大寺院ですので巨大ではあります。


勝海舟寓居の地」。
境内入口付近にある碑。
勝海舟海軍伝習所の伝習生となり、
安政2年より長崎に滞在し、
蘭海軍士官カッテンディケらに指導を受け、
海軍知識を身に付けたとされますが、
その際は本蓮寺の塔頭大乗院を宿所とし、
海軍伝習所に通ったようです。


現地案内板より。
本蓮寺には多くの伽羅があったようで、
勝の宿泊した大乗院もそのひとつでした。
大乗院は幕府の宿所に使用されたようで、
幕府の役人やシーボルトも宿泊しています。
絵図を見るとやはり城塞のようですね。

勝は大乗院を宿所とはしていましたが、
未亡人くまと知り合って、
そのくまの家に入り浸っていたという。
くまは勝の子一男一女をもうけますが、
26歳で死去しています。
勝には知られるだけで7人の妾がおり、
その最初がくまであったという。


サン・ラザロ病院
 サン・ジョアン教会 跡
」。
石段の反対側には聖ラザロ病院と、
聖ジョアン教会の跡碑が建てられています。


訪問時は本堂の改修中。
石段に車道を仮設した大掛かりなもので、
本堂もシートに覆われて見えませんでした。

裏手にある本蓮寺墓地へ。
広大な斜面に墓地が広がっています。

高木家墓所」。
長崎には奉行所が置かれて長崎奉行が赴任し、
行政上の万般を司っていましたが、
長崎の市政は地役人が担当しており、
任命された代官がその行政を行いました。
初代代官は村山等安が務めますが、
豊臣方に通じた嫌疑で捕らえられ斬首となり、
次に末次平蔵政直が任命されて4代続き、
4代末次平蔵茂朝が密貿易で獄門となります。
その後に町年寄髙木作右衛門が代官となり、
以後は高木家の世襲となって続きました。
この墓所は町年寄時代からのもので、
代官に任命された9~10代の墓もあります。


三浦惟純翁
 室 滿佐姫
(左)」。
幕末の南画家三浦悟門の墓。
三浦家は代々長崎会所の目付を務めた家柄で、
悟門も目付役を務めていましたが、
幼い頃から絵を好んでいたようで、
渡辺鶴州石橋融思に師事。
山水人物花鳥等全て巧みでしたが、
特に山水画に秀でていました。
日高鉄翁木下逸雲と並び長崎三筆と称され、
彼の描いた鍾馗様を玄関に掲げると、
コレラに罹らないとまで云われています。

そして今回のお目当て。
沢村惣之丞の墓へ。

村木氏外土佐住民諸氏之墓」。
詳細は不明ですが村木家の墓に、
土佐出身者が合葬されているようで、
関雄之助延世の名で沢村も刻まれています。
沢村は土佐藩脱藩浪士で、
坂本龍馬と共に勝海舟の門下となった人物。
亀山社(後の海援隊)の結成に参加し、
英語に長けていた為に外人応接を務めました。
龍馬と中岡慎太郎近江屋で暗殺されると、
紀州藩公用人三浦休太郎の襲撃に参加。
龍馬亡き後の海援隊を支え、
維新後に治安の悪化した長崎を警護しますが、
誤って薩摩藩川端平助を殺害してしまい、
この責任を取って自刃しています。
かつては小さな個人の墓があったようですが、
いつの間にか失われたようで、
近年にこの墓に刻まれていたのが発見され、
沢村惣之丞の墓として知られるに至りました。

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