河原宿は赤間関街道中道筋の駅宿で、
肥中街道も重なっていた為、
双方の宿場を兼ねていました。
美祢市伊佐町河原周辺。緑の線が街道筋で、
赤丸で囲んだ辺りが宿場のあった場所。
「河原宿跡」。
明治3年と昭和38年に大火があり、
多くの家屋が焼失したとの事ですが、
古い家屋は残っている感じで、
昭和38年以降とは思えない家屋もあり、
全てが焼失した訳ではない模様。
「専正寺」。
河原宿東端にある真宗本願寺派の寺院。
諸隊は九州行きを決めた五卿のうち、
三条西季知と四条隆謌の二卿が萩へ向かい、
別れの挨拶の警護で伊佐市に転陣。
その一部が先遣隊として河原宿に進出し、
この専正寺と本陣としました。
本堂や庫裏などは2度の大火で焼失し、
現在のものは昭和57年築とのこと。
諸事情の為に二卿が萩行きを断念し、
代わりに中岡慎太郎が萩に赴きますが、
その帰りにここに宿泊したようで、
宴席で中岡が酔って騒いだとされています。
「諸隊(奇兵隊・南園隊)宿陣跡」。
専正寺を本陣とした諸隊が分宿した場所。
元治2年1月5日。
諸隊の先遣隊は絵堂を目指して出陣し、
翌6日夜に絵堂に到着しています。
翌未明に中村芳之助と田中敏助の2名が、
萩政府軍本陣の粟屋帯刀に戦書を届け、
帰隊と同時に一斉射撃を開始。
大田絵堂の戦いの火蓋が切られました。
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中道筋と西国街道が合流する宿場町。