長崎県長崎市 晧臺寺/小曽根家墓所

寺町通りの西側の風頭山山麓墓地群は、
急な斜面に所せましと墓が広がっています。
そこには多くの歴史上の人物の墓があって、
これを探すとなると大変。
狙いを定めて何度も行くしかありません。

晧臺寺墓地も境内の後ろ側に広がっており、
前回の楠本家墓所弊振坂沿いは序の口。
奥の墓へ行くのはなかなか骨が折れます。
坂本龍馬の長崎での支援者小曽根家墓所は、
晧臺寺墓地の墓域の北端。

本来は本堂裏手の坂を登るようですが、
現在は改装工事中の為に南側より向かう。
筋を間違えれば石段を登ったり降りたりと、
乳酸の溜まる行為を繰り返しながら、
なんとかたどり着きました。


小曽根家墓所」。
小曽根家の遠祖は甲斐武田家家臣とされ、
家祖は江戸時代初期の平戸道喜という。
道喜は慶長年間に長崎本博多町に住み、
小曾根姓に改めて質商、古物商や、
外国との貿易、建設業と事業を拡げますが、
やがて家運は衰えて困窮。
江戸末期に福井藩佐賀藩の御用を得て、
再度家運を上げて豪商となりました。
幕末期の小曽根乾堂勝海舟の莫逆の友で、
書家篆刻家としても名を残し、
御璽国璽を刻したことで知られます。
※乾堂の墓はここにはなく大平寺墓地。
大きな墓は歴代当主の墓石なのでしょうが、
資料が少なく誰が誰かわかりません。


梅花書屋氏墓」。
亀山社中隊士近藤長次郎の墓。
高知城下の饅頭屋の息子として生まれ、
河田小龍岩崎弥太郎に学び、
江戸に留学して勝海舟などに師事し、
神戸海軍操練所にも入所しています。
後に脱藩して薩摩藩小松帯刀を頼り、
亀山社中を結成してその中心となり、
ユニオン号の購入に尽力しました。
近藤は英国留学を計画しますが、
これが盟約違反にあたると追及を受け、
他の隊士らに詰腹を切らされます。
切腹は小曽根邸で行われたとされ、
遺骸は晧臺寺裏手に埋葬されていましたが、
後に小曽根家墓所に移されました。
墓碑銘は龍馬の字。

近藤の墓の横は小曽根兄弟の墓。

雲林院石心竹静居士
 月波竹泉居士
」。
乾堂の弟小曽根正雄小曽根英四郎の墓。
正雄は小曽根六右衛門の三男で、
剣の達人だったようで早くから京都へ上り、
後に幕臣大久保忠恕の家臣となりますが、
鳥羽伏見の戦いで戦死しました。
英四郎は六右衛門の四男で、
高島秋帆に師事した銃術の名手で、
龍馬と共に厄介となった楢崎龍に、
短銃の扱いを教えたとされています。
龍馬を経済的に支えたようで、
海援隊が結成すると会計を担当しました。


直揁槍傳居士(左)」、
服部君墓銘(右)」。
津藩本心鏡智流槍術師範服部源蔵の墓と、
その墓碑銘。
嘉永5年に長崎を訪れており、
小曾根家で厄介となりますが、
病気となってそのまま死去した人物。
小曾根家では多くの者が厄介になりますが、
滞在中に死亡する人もいたようで、
死後まで面倒みる事を信条としていました。

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