滋賀県米原市 醒井宿跡

醒井宿中山道の61番目の宿場。
醒井は古代からの交通の要衝で、
古事記日本書紀にもその名が見られ、
霊仙山からの豊富な湧水があった為、
旅人の休憩に最適であったようです。


JR醒ヶ井駅周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが宿場のあった場所。

日の出後に西側より散策。

醒井宿跡(児醒井)」。
JR醒ヶ井駅より南東に進んで街道筋へ。
名神高速に最も近づいた辺りから、
宿場の雰囲気が残る街並みとなります。


西行水」。
醒井の湧水群の一つ。
東国への旅の途中に西行法師が、
ここにあった茶屋でお茶を飲み、
その西行法師が立ち去った後、
飲み残した茶の泡を飲んだ娘が、
何故か妊娠して男の子を出産しました。
帰路にこの話を聞いた西行法師は、
我が子なら元の泡に返れ」念じると、
その子はたちまち元の泡になったという。
泡となった男の子が可哀想な気がしますが、
岩の上の石塔はその子のもので、
泡子塚と呼ばれています。
この辺りが児醒井とよばれるのは、
その男の子に由来するようです。


居醒橋と醒井大橋」。
地蔵川に架かる2本の橋。
街道筋はここから地蔵川と接続します。
明治期には新川通船船着場が設けられ、
鉄道敷設前の10年間程は、
地蔵川より天野川本流に合流し、
琵琶湖に至る輸送航路があったという。


醒井宿跡(中町)」。
片側に地蔵川が流れる宿場の中心地。
往時の雰囲気が残って歩くのも楽しい。


明治天皇御駐輦所(江龍家表門)」。
庄屋及び問屋場を務めた江龍家の跡で、
現在は駐車場となっており、
その表門のみが残されています。
明治11年の明治天皇行幸の際は、
休憩所として利用されました。


問屋場」。
問屋場を務めた旧川口家の住宅で、
復元されて醒井宿資料館となっています。
見学は無料。


本陣跡(日本料理 本陣樋口山)」。
本陣松井があった場所のようで、
現在はニジマス料理店となっています。
当時の関札が待合に飾っているとのこと。


醒井地蔵堂」。
弘仁8年(817)に大旱魃があった際、
伝教大師最澄延暦寺根本中堂で、
雨乞いの祈祷を行ったところ、
薬師如来が夢に現れて、
醒井に霊泉が湧き出す地がある
との御告げがあったという。
これに従い最澄が醒井を訪れると、
1人の老人が忽然と現れて、
この地に地蔵尊像を安置して祀れば、
 雨が降り草木も生き返るであろう

と告げ姿を消します。
最澄は早速地蔵尊座像を彫り、
これを安置すると三日間雨が降り続き、
多くの人達が救われたとされます。
当初は水の中に安置されていましたが、
大垣藩藩主石川家成が御堂を造営し、
そこに地蔵尊像を安置しました。


居醒の清水」。
地蔵川の源流で1日1.5万t水が、
絶え間なく湧き出ています。
湧き出るその水は確かに美しく、
清流しか生息出来ない梅花藻や、
絶滅危惧種ハリヨも生息しているらしい。
平成名水百選


大和武尊命像」。
大和武尊大蛇(又は猪)を退治した際、
猛毒(又は冷気)を受けて発熱します。
なんとかこの地まで辿り着くと、
湧き出る清水で体を冷やしたという。
これが居醒(醒井)の清水の由縁とのこと。


加茂神社」。
創建の正確な由緒は不詳ですが、
氏神として古くから信仰されました。
往時は現在地より南に鎮座しており、
名神高速の建設に伴い遷座しています。


醒井宿跡(新町)」。
醒井宿は更に続きます。
東側の入口は枡形となっており、
番所が置かれていたという。
醒井宿は始め天領だったようですが、
後に郡山藩の飛地領となっており、
藩士らが派遣されていました。

宿場の雰囲気は残されており、
古い商家も残っていますが、
そんな事はすっかり忘れてしまう程、
地蔵川の水が美しかった印象です。

■中山道の宿場町

■関連記事■
滋賀県米原市 番場宿跡
 中山道の62番目の宿場町。
滋賀県彦根市 鳥居本宿跡
 中山道の63番目の宿場町。
奈良県大和郡山市 郡山城跡
 醒井宿は郡山藩の飛地でした。