お吉は玉泉寺の米国総領事館からヒマを出された後、芸者に戻っています。
その後、外国人と関係を持ったと忌み嫌われて差別を受けたらしいのですが、
どうも違うんじゃないかなと思います。
玉泉寺に勤めていた女性は、お吉以外にも居て、
それらが差別されたという話は残っていません(残っていないだけかもしれませんが)。
了仙寺の宝物館には、下田の婦人が異人をなぶる様子が描かれた絵も残っており、
そこまで外国人が忌み嫌われていたとは思えません。
「米利幹人下田湊入津の図」
差別されていた理由は、お吉自身にあるような気がしますね。
それ以前にも養女に出された先から離縁された経験もありますし、
3日(3ヶ月の説もある)でクビになるのは、
お吉の性格に難があったのではないでしょうか?
その後、退職金(手切金?)で派手に振舞っていたとか、酒におぼれていたとか、
どうもロクデナシの女だったような気がします。
とにかく他に奉公していた女性は長く勤めていたのに、
お吉だけが短期間でクビになったというのは異例でした。
その後、横浜に移り住んだお吉は、偶然幼馴染の鶴松と再会して同棲。
下田に戻って二人で髪結業を始めます。その後、鶴松と別れで芸者に戻り、
安良里の船主の後援で小料理屋を始めました。
その小料理屋の建物が現在も残っています。
「安直楼」。
お吉はここで小料理屋を始めましたが、2年で廃業してしまいます。
パトロン付でしたので資金はあったはず。そんなに簡単には潰れないでしょう。
以前やっていた髪結業も、大儲けできないまでも需要の必ずある仕事で、
普通に経営していれば潰れる事のない仕事です。
ここは以前は中まで見学できて、お吉の遺品なんかもあったそうですが、
現在は閉鎖中。外から眺める事しかできません。
「お吉ヶ淵」。
晩年のお吉は乞食同然だったという。
明治24年、お吉は稲生沢川に身を投げて入水自殺してしまいます。
酒に酔っての事故かもしれません。
畔に建てられているお地蔵様は「お吉地蔵」。
昭和8年、新渡戸稲造によって建てられました。
お吉ヶ淵と呼ばれる前は門栗ヶ淵と呼ばれていたようです。
ゆるやかな流れで、入水自殺には不向きかな?とも思われます。
まあ川なんで増水してる場合もありますし、
当時はもっと急な流れだったのかもしれませんね。
お吉を祀る「お堂」。
お吉ヶ淵と宝福寺では、毎年3月27日にお吉の供養祭が行われているそうです。
「龍馬志の像」。
さて、下田観光も終わりに近づきました。
下田港の「まどか浜海遊公園」には、坂本龍馬の石像があります。
ここには足湯もあり、下田を歩き回って疲れた(特にハリスの小路)足を癒しました。
足湯に浸かっていると、黒船遊覧船「サスケハナ号」が航行するのが見えました。
下田港周辺を遊覧する観光船です。
下田に来てキンメダイを食べなければ!
「開国下田みなと」にある「市場の食堂 金目亭」で金目三色丼を頂きました。
キンメの刺身、あぶり、ズケが乗って1400円。めちゃウマイ!
■関連記事■
・下関の人々は外国人に慣れていた
攘夷戦の起こった下関は、実は外国人は身近だった。
・おりょうさんについて①/②
彼女もある意味では似た境遇であったのかも?
・らしゃめん伝吉①/②
漂流民伝吉は通訳となり、外国人のように振る舞いました。