下田一の人気芸者だったお吉は、
玉泉寺の米国総領事館に派遣され、
タウンセント・ハリスの看護婦となります。
当時のハリスは体調を崩していた為、
困った通訳のヘンリー・ヒュースケンは、
下田の役人に看護婦の派遣を依頼。
しかし当時は看護婦という観念が無く、
役人が[看護婦=妾]と誤解し、
妾ならばと下田一の芸者であるお吉にと、
白羽の矢が立ったのだという。
当時の人々は青い目の異人に偏見があり、
お吉も最初は断っていましたが、
半ば強制的に説得されたとされており、
後にお吉は悲劇的な人生を送ります。
宝福寺はそのお吉の墓所。
「宝福寺」。
大きな坂本龍馬の木像が建っています。
この寺はお吉の墓所として有名ですが、
坂本龍馬にゆかりのある寺でもあります。
「坂本龍馬飛翔之地」碑。
この寺に坂本龍馬が訪れた記録は無し。
それなのに[飛翔之地]とは?
その答えが石碑の横に書かれています。
[山内容堂 勝海舟謁見之寺]。
それが理由。
文久3年1月15日。
この寺に投宿中の山内容堂に勝海舟が謁見。
当時の龍馬は土佐藩より脱藩し、
土佐藩からはお尋ね者の状態でしたが、
それを危惧した勝海が容堂に対して、
脱藩の罪を許してくれるように頼みます。
飛翔之地というのは脱藩の罪が放免となり、
龍馬が飛翔する事が出来たという事らしい。
宝福寺にある[唐人お吉記念館]内。
お吉に墓はこの記念館にあります。
余程の事がない限り資料館的なものには、
入らないようにしているのですが、
今回は仕方が無いので入館。
何故資料館にあまり入らないかというと、
入ったはいいが写真はダメだったり、
※ここはOKでした。
パネル展示ばかりだったりするから。
写真はお吉が玉泉寺に行くときに乗った籠。
お吉の身長は171cmだったようです。
大柄だったんですね。
「容堂 海舟 謁見の間」。
勝海舟が山内容堂に謁見した部屋。
当時の状態で残ってるのは床の間と畳。
容堂は酒の飲めない勝に対し、
大杯の酒を飲み干せば罪を許すと言い、
勝はその大杯の酒を飲み干して、
許しを得たと伝えられています。
容堂にとって郷士の罪などどうでもよい話。
大杯の酒を海舟に勧めたのは、
戯れ以外の何ものでもないでしょう。
この行動によって龍馬は許されました。
記念館内にはお吉の遺品や、
資料などが多く展示されており、
入場料を払うだけの価値はありました。
お吉の過去張も展示されており、
実在の人物だったということがわかります。
お吉の墓。
お吉は稲生沢川に身投げしましたが、
遺体の引き取り手が無かったため、
不憫に思った住職が引き取って、
最初の墓を建てました。
後に戦前の有名役者らの寄付により、
立派な墓が建てられています。
面白いなと思ったのがこの看板。
お吉と龍馬の肖像が書かれていますが、
お吉の顔は19歳のお吉と伝えられるもので、
現在はお吉ではないという説が主流。
そして龍馬は大河龍馬伝の福山雅治。
関係者に福山ファンが居るんでしょう。
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