静岡県下田市 下田湊④/宝福寺(唐人お吉と龍馬飛翔)

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下田一の人気芸者だったお吉は、
玉泉寺米国総領事館に派遣され、
タウンセント・ハリス看護婦となります。
当時のハリスは体調を崩していた為、
困った通訳のヘンリー・ヒュースケンは、
下田の役人に看護婦の派遣を依頼。
しかし当時は看護婦という観念が無く、
役人が「看護婦=」と誤解し、
妾ならばと下田一の芸者であるお吉にと、
白羽の矢が立ったのだという。
当時の人々は青い目の異人に偏見があり、
お吉も最初は断っていましたが、
半ば強制的に説得されたとされており、
後にお吉は悲劇的な人生を送ります。

宝福寺はそのお吉の墓所。

宝福寺」。
大きな坂本龍馬の木像が建っています。
この寺はお吉の墓所として有名ですが、
坂本龍馬にゆかりのある寺でもあります。


坂本龍馬飛翔之地」碑。
この寺に坂本龍馬が訪れた記録は無し。
それなのに「飛翔之地」とは?
その答えが石碑の横に書かれています。
「山内容堂 勝海舟謁見之寺」。
それが理由。

文久3年1月15日。
この寺に投宿中の山内容堂勝海舟が謁見。
当時の龍馬は土佐藩より脱藩し、
土佐藩からはお尋ね者の状態でしたが、
それを危惧した勝海が容堂に対して、
脱藩の罪を許してくれるように頼みます。
飛翔之地というのは脱藩の罪が放免となり、
龍馬が飛翔する事が出来たという事らしい。


宝福寺にある「唐人お吉記念館」内。
お吉に墓はこの記念館にあります。
余程の事がない限り資料館的なものには、
入らないようにしているのですが、
今回は仕方が無いので入館。
何故資料館にあまり入らないかというと、
入ったはいいが写真はダメだったり、
※ここはOKでした。
パネル展示ばかりだったりするから。
写真はお吉が玉泉寺に行くときに乗った
お吉の身長は171cmだったようです。
大柄だったんですね。


容堂 海舟 謁見の間」。
勝海舟が山内容堂に謁見した部屋。
当時の状態で残ってるのは床の間
容堂は酒の飲めない勝に対し、
大杯の酒を飲み干せば罪を許すと言い、
勝はその大杯の酒を飲み干して、
許しを得たと伝えられています。
容堂にとって郷士の罪などどうでもよい話。
大杯の酒を海舟に勧めたのは、
戯れ以外の何ものでもないでしょう。
この行動によって龍馬は許されました。


記念館内にはお吉の遺品や、
資料などが多く展示されており、
入場料を払うだけの価値はありました。
お吉の過去張も展示されており、
実在の人物だったということがわかります。


お吉の墓
お吉は稲生沢川に身投げしましたが、
遺体の引き取り手が無かったため、
不憫に思った住職が引き取って、
最初の墓を建てました。
後に戦前の有名役者らの寄付により、
立派な墓が建てられています。


面白いなと思ったのがこの看板。
お吉と龍馬の肖像が書かれていますが、
お吉の顔は19歳のお吉と伝えられるもので、
現在はお吉ではないという説が主流。
そして龍馬は大河「龍馬伝」の福山雅治
関係者に福山ファンが居るんでしょう。

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