静岡県下田市 下田湊②/松陰の密航計画

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嘉永7年(1854)3月28日。
吉田松陰と弟子の金子重輔は、
ペリー艦隊への密航を企てようとしますが、
渡航を拒絶されて失敗に終わります。
前年にも長崎でロシア艦への密航を計画し、
長崎に到着する前にロシア艦が出航した為、
その時も失敗していました。


吉田松陰投宿の跡」。
密航を図るために下田に来た2人が、
最初に宿泊した旅籠岡村屋の跡地。
現在は下田屋旅館になっています。

下田から内陸の蓮台寺温泉へ。

共同風呂 上の湯」。
下田に着いた松陰でしたが、
元来の風呂嫌いのせいか疥癬を発症。
疥癬はダニの寄生によって生じる皮膚病で、
流石に辛抱たまらんと思ったのか、
蓮台寺温泉まで出掛けており、
真夜中こっそりと共同風呂に入りました。
その風呂が当時のまま残っています。
※この共同風呂は村人しか入れなかった。


吉田松陰寓寄処」。
上の湯に入っていた松陰ですが、
真夜中に風呂に入るもんだから、
どうしてもぴちゃぴちゃと音がします。
その音を聞いて不審に思ったのは、
近くに住む村医者の村山行馬郎
訳を聞いた村山は松陰を自宅に匿い、
密航計画に賛同して手伝う事となりました。
松陰らは昼間は2階の隠し部屋に隠れ、
夜は下田の海岸に出て黒船の様子を探り、
黒船への密航の機会を窺います。

再び下田へ。

吉田松陰先生像」。
柿崎三島神社境内にある松陰の石像。
弁天島方向を向いています。

弁天島へ。

松陰七生説碑(左)」、
金子重輔君碑(右)」。
松陰らは弁天島という小島に潜伏。
現在は埋め立てられて陸続きになっており、
徒歩で行くことができます。
七生説楠木正成七生滅賊を基に、
松陰が書いた精神論で簡単に言うと、
楠木正成の様に七度生まれ変わっても、
 朝敵を滅ぼすような人間になるぞ

というような意味。


弁天社祠」。
ここに松陰らは潜伏し、
黒船に渡るチャンスを窺いました。
潜伏といってもこの祠から見る海の景色は、
最高のロケーションです。
もちろん当時停泊していた黒船も、
ここからバッチリ見えたでしょう。


踏海の朝」と題された松陰と金子の銅像。
弁天島の先にある弁天島公園にあります。

松陰らは夜中に小舟で黒船に向かい、
停泊するUSSミシシッピーに乗り込み、
漢文の筆話で密航の意思を伝えます。
しかし乗組員にこれを読めるものはおらず、
旗艦のUSSポーハタンに移動すると、
そこで通訳官ウィリアムズが対応。
結局密航は拒絶されてしまい、
ボートで岸まで送り届けられ、
松陰の密航計画は失敗に終わりました。

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