嘉永6年にペリー艦隊が浦賀に来航し、
幕府に開国を求めます。
幕府は回答に1年の猶予を要求し、
ペリー艦隊は1年後にまた来ると告げて、
艦隊と共に日本を後にしました。
1年の猶予の約束でしたが、
半年後にペリーは再び浦賀に来航。
約1ヶ月の協議の末に日米和親条約が締結。
下田と箱館が開港されます。
まずペリー艦隊は箱館に行き、
松前藩家老松前勘解由と交渉しますが、
権限が無いと拒絶されて下田に向かい、
条約の細則を定めた下田条約が締結。
ちなみにですが、
「泰平の眠りを覚ます上喜撰
たつた四杯で夜も眠れず」
の狂歌で想像すれば、
庶民は相当恐れていた様に思えますが、
実際はそうでも無い。
外国には蒸気船という船があることも、
意外と古くから知られていましたし、
興味深々な当時の江戸の人々は、
勝手に小舟で黒船に近付いていたようです。
さて、下田といえばキンメダイ。
僕の勤めている会社は、
金目鯛漁に使用する装置も作っており、
その装置の納品に下田に行ってきました。
横浜で締結した日米和親条約は、
細かい点が決められていなかったため、
下田で和親条約の細則が決められます。
「ペリー艦隊上陸記念碑」。
ペリー艦隊の乗組員が始めて上陸した場所。
ペリー本人が上陸した場所かは不明ですが、
交渉が行われた了仙寺に海から行くには、
このあたりが最短距離ですので、
ここから上陸した可能性は高いでしょう。
ペリーの胸像と説明板がありました。
「開国記念碑」。
小高い山にある下田公園にあります。
開国100周年を記念して建てられたもの。
ペリーとハリスのレリーフが設置。
タウンゼント・ハリスは、
初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。
「下岡蓮杖翁之碑(左)」、
「下岡蓮杖翁の像(右)」。
下岡蓮杖は上野彦馬や鵜飼玉川と並ぶ、
日本最初期の写真家です。
米国領事館の給仕役として、
ハリスやヒュースケンと知り合い、
※ヘンリー・ヒュースケン=通訳。
写真術(簡単な操作法)を教わっており、
後に横浜で本格的に写真術を習い、
横浜初(日本で2~3番目)の写真店を、
文久2年に開業しました。
下田公園を出て[ペリーロード]へ。
先程の上陸地から了仙寺に向かう道で、
平滑川をはさむ石畳の小道。
風情ある家並みが続いています。
「長楽寺」。
ペリーロードから路地を入るとある寺院。
日露和親条約の調印、
批准書の交換が行なわれた場所です。
「了仙寺」。
ペリーロードの終点。
この寺で日米下田条約が結ばれました。
「了仙寺本堂」。
嘉永7年5月22日。
日米和親条約付則13ヶ条が結ばれます。
※日米下田条約は通称。
また町民たちを対象としたコンサートが、
米国海軍の軍楽隊によって開かれました。
これが日本で最初の洋楽コンサートとされ、
その後は陸戦隊の調練も行われています。
この了仙寺には、
了仙寺宝物館と黒船美術博物館があり、
国内最大の黒船コレクションがあるという。
残念ながら早朝で開いていませんでした。
下田はこれらの条約以降、
外国人が町を往来することが可能になり、
米国人が洗濯したり餅つきをしたり、
魚を地引網で獲ったりの風景が、
町のあちこちで普通に観られたようです。
しかしながら下田の船宿が黒船のせいで、
普通の旅人が来なくなってしまい、
閑古鳥が鳴くようになった為、
米国人を引っ張り込んで婦人達に弄ばせて、
身包み這いたという話もあるという。
庶民の生きる為のパワーには、
黒船もかなわないといったところでしょう。
①/②/③/④/⑤/⑥
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