秋田県鹿角市 尾去沢鉱山跡②

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つづき。

近代鉱山の見学を終えて、
江戸時代の坑道に遡ります。

南部藩西道金山奉行所」。
奉行所内で入山許可を得る演出。
こういうのは嫌いではありません。
初代奉行南部重佐衛門がお出迎え。
この南部重佐衛門とは、
北十左衛門信景の事でしょう。


石切沢通道坑・金廟備」。
江戸期の坑道を広げて堀り進めた際、
偶然発見された良質の銅鉱脈

ここから慶長期の坑道。

からめ場」。
採掘した金鉱石を細かく砕き、
篩にかけた粉鉱を水流して泥を流し、
沈殿した金を採種しているところ。
たぶんこれは坑内ではしないでしょう。


鉱脈の採掘風景。
実際に採掘を行う金工と、
鉱石を外に運び出す女堀子


実際の手掘り坑道(間歩)。
近代坑道を見てからだと非常に狭い。
手掘りだけに最小限なのでしょう。
1日に30㎝程度しか掘れないらしい。


落盤防止の支柱を組み立て。


隠れキリシタンは島原の乱後に奥州に逃れ、
その多くが鉱山に潜伏していたらしい。
鉱山に認められた治外法権的慣習が、
宗徒の潜伏に適していたという。


最後はエスカレーター(笑)。
いきなり現代に戻ってきました。
出口はお約束のお土産屋です。

尾去沢鉱山は、
田舎なれども南部の国は
 西も東も金の山
」と、
民謡で歌われた盛岡藩の鉱山のひとつ。
別子銅山阿仁銅山と共に、
日本の主力銅山の一つであったという。
江戸末期になると財政難の南部藩は、
城下の鍵屋村井茂兵衛に多額の借財をして、
その借金で鉱山を運営していましたが、
証文上は藩が村井に鉱山を貸し付け、
経営している形になっていました。
戊辰戦争で盛岡藩が降伏した後は、
村井が7万両を納める見返りに、
採掘権が村井に譲渡されていましたが、
大蔵大輔井上馨は明治4年に、
盛岡藩の証文で採掘権を差し押さえ、
村井を破産に追い込みます。
井上は尾去沢鉱山を競売にかけ、
岡田平蔵(伊勢平)に払い下げたうえ、
結託して鉱山を私物化。
そして村井の再三の訴えにより、
司法卿江藤新平がこれを追求し、
井上は大蔵大輔を辞職しています。
尾去沢銅山事件
政界を辞した井上は岡田や益田孝と共に、
鉱山会社を明治6年に設立しており、
更に岡田組として貿易も手掛けましたが、
間もなく岡田は変死してしまいます。
井上や益田は鉱山事業を岡田の遺族を渡し、
先収会社を設立してこれが三井物産に発展。
一方で尾去沢鉱山は三菱財閥に経営が移り、
開発されて近代鉱山へと発展しており、
昭和53年に閉山するまでに、
銅30万t、金4.4t、銀155tを産出したという。

意外と面白かった尾去沢鉱山。
もっと宣伝すれば客も呼べるかも?
遠すぎるので難しいですが、
子供を連れて来たいなと思いました。

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