吉田松陰の浦賀行③

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つづく。

6月7日、晴。
西浦賀に至り平根山に登る。
西浦賀には5門の大砲が連なり、
2~300挺のを皆が持ち、
海辺には番舟が数10隻並んでいる。
千代崎灯台下に至り賊船を臨む。
未後に蛙舗楼の上に至り、
※西浦賀にある何かの店舗か?
望遠鏡で賊船を臨む。

6月8日、晴
尻コスリ坂を越えて沿海を巡視。
久里浜から野比に繋がる国道134号。
松輪御崎に至り帰路に久里浜を過ぎる。
賊は明日にここに来て国書を呈し、
奉行2人と会見するという。
(奉行は戸田伊豆守伊戸石見守
江戸を昨日出発して今日来る)
砂浜の上に幕営を設置している。
浦賀以西の砲台5門、千代崎(砲15門)、
千田崎伯耆山(砲2門)、大浦剣崎と、
彦根藩の陣ではあるが、
位置が良くないので役に立たない。
平根山、上宮田三崎には皆陣屋が在り、
上宮田では農民が盛んにを炊き、
丸く握って士卒に給している。
今日米を炊いたのは僅か10俵のみという。
三崎は遥かに多く75俵に至る。
西浦賀は最も多く平根山はこれを凌ぐ。
三崎は漁舟を多く雇い、
陣屋の兵士は将に久里浜に赴くなり。
伝え聞く、賊船内の病人は三百人程。
巳時に久里浜に脚船2隻で来て、
3人上陸して薬草を探し海深を測量した。
数日前より牛馬に家具を載せ逃げる者あり、
聞くと老人子供いる家は、
災いを避ける為に内地の佐原に行くという。

6月9日
久里浜に両奉行が出張。
夷の国書を受け取る。
我この日の晩に浦賀を出発する。
10日午時に桜田藩邸に到着。
9日夕方に夷船四隻共に、
本牧沖まで乗り込み13日に退帆した。
江戸中は大いに鼎沸、
20日に九鬼式部少輔本多越中守
河路江川等、相蔵房総海岸を御巡視。
綾部藩9代九鬼式部少輔隆都
 泉藩5代本多越中守忠徳
 勘定奉行海防掛川路聖謨
 韮山奉行江川太郎左衛門英龍


以上が嘉永6年の吉田松陰の浦賀行です。
浦賀にはまだ未訪問ですので、
地図を見つつ記事を書きましたが、
現在は無い旧地名が多く、
守備兵の布陣がよくわかりませんでした。
但し意外に臨戦態勢ではあった様子で、
仮に砲火を交えたとしても、
艦隊は湾内には入り込めないでしょう。
この大事件で松陰は只の見物人ですが、
その松陰に色々と情報が入っている事から、
現場の混乱状況も伺えますね。

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