山口県防府市 大楽寺/毛利重就分骨塔

長州藩7代藩主毛利重就は、
困窮していた藩財政を立て直す為に、
数々の藩政改革を断行。
後の幕末期に藩が行動する為の軍資金を、
蓄える基礎を築いた名君とされます。

重就は天明2年(1782)に隠居していますが、
隠居後は三田尻御茶屋で余生を過ごし、
寛政元年(1789)に死去。
遺骸は歴代墓所の東光寺に葬られますが、
防府の大楽寺には分骨塔があります。


大楽寺」。
大楽寺は桑山東麓に位置する曹洞宗寺院。
詳しい由緒は判りませんが、
永徳元年(1381)の創建とのこと。
元々は防府市西仁井令にあったようですが、
ここにあった宝積寺が廃寺となり、
その建物を譲り受けて移転したらしい。


大楽寺の梵鐘」。
三田尻御船蔵時鐘であったもので、
安永5年(1776)に鋳造されていますが、
その鋳造作業を重就が見学しています。
御船蔵が廃止された後は、
専称寺(現専光寺)に移されていましたが、
明治7年に台風で鐘楼が倒壊した為、
この大楽寺に移されたとのこと。


英雲院殿御菩提之霊塔」。
長州藩7代藩主毛利重就の分骨塔。
ここに分骨された詳細は判りませんが、
晩年を過ごした防府に分骨される事を、
生前に重就が望んだのかも知れません。
重就は長府藩6代藩主毛利匡広の十男で、
兄で7代藩主毛利師就の死後に家督を継ぎ、
長府藩8代藩主に就任。
後に宗家6代藩主毛利宗広の早逝により、
末期養子となって7代藩主となります。
藩主就任後すぐに家老らを招集し、
逼迫する藩財政の改革案を提出させ、
これを基に次々と改革を断行。
増益した資金を特別会計として蓄え、
いざという時の為の資金とする為に、
撫育方を新設させました。
この資金を増やす為に重就は、
藩を海上輸送商品流通に係わらせ、
室積中関伊崎等の商業港を整備。
会所を設置して商取引を行わせています。
これにより藩は新田開発塩田開発
港湾整備に盛んに投資出来るようになり、
柔軟な資産運用が可能となりました。
これが幕末期の尊攘運動の資金に使われ、
倒幕への軍資金にも使用されたようです。

■関連記事■
山口県萩市 東光寺/長州藩毛利家墓所
 重就の本墓がある黄檗宗の寺院。
山口県萩市 大照院/長州藩毛利家墓所
 藩主家歴代墓所のひとつ。
山口県萩市 天樹院跡/毛利輝元墓所
 藩祖毛利輝元の墓所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です