徳川十六神将末裔の幕末①

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以前に毛利元就家臣の幕末を書きましたが、
毛利元就家臣末裔の幕末
今度は徳川十六神将の幕末を調べてみます。

徳川十六将図」。

松平康忠(長沢松平家)
(→旗本)
徳川家康の隣で控える人物は松平康忠。
康忠の子松平康直は嗣子の無いまま死去し、
家康の七男松千代に跡を継がせますが、
松千代は幼くして死去してしまい、
家康の六男松平忠輝が跡を継ぎます。
この忠輝は家康に嫌われていたとされ、
また素行も悪かったようですので、
家康死後に改易されてしまいました。
その血統は細々と続いていますが、
幕府はなかなか長沢松平家を認めず、
認知後も家禄は低いまま続きます。
幕末の当主松平主税助忠敏は、
講武所剣術教授方に任命され、
新撰組の前身浪士組取扱役に就任。
浪士組が新徴組として組織されると、
新徴組支配を命じられています。
新撰組関係の小説では剣の達人として登場。

酒井忠次(酒井左衛門尉家)
(→庄内藩15万石)
徳川四天王、徳川十六神将の筆頭で、
徳川家康第一の功臣。
庄内藩15万石として栄えてます。
幕末は江戸市中警護を勤めており、
新徴組も預かっていました。
戊辰戦争では新政府軍を領内に一歩も入れず、
徳川譜代名家の面目を保っています。

榊原康政(榊原式部大輔家)
(→高田藩15万石)
徳川四天王榊原康政は子孫に恵まれず、
断絶の危機を何度も迎えますが、
名家斬絶を幕府が惜しみなんとか存続。
江戸前期は転封を繰り返して財政は困窮し、
高田藩入封以降は落着きますが、
飛地が多くて財政は悪化。
名君の11代当主(3代藩主)榊原政令が、
財政改革で立て直しています。
第二次長州征伐では彦根藩と共に先鋒を務め、
芸州口の戦いに敗れて面目を失い、
大政奉還後も曖昧な態度を取りましたが、
新政府軍が迫ると幕府歩兵隊を追放して恭順。
会津討伐にも兵を出しました。
戦後は降伏した会津藩士を預かり、
同情を示して手厚く待遇したという。

平岩親吉
(→断絶)
家康幼少の頃よりの近従で、
数々の戦いで戦功を挙げましたが、
継嗣無く家康の八男を養子としますが、
早逝してしまい平岩家は断絶しました。

井伊直政(井伊掃部頭家)
(→彦根藩30万石→20万石→23万石)
赤供えで有名な井伊掃部頭家は、
譜代筆頭として6人の大老を出しています。
幕末の当主は井伊直弼

本多忠勝(本多平八郎家)
(→岡崎藩5万石)
豪傑として知られる本多忠勝の宗家は、
江戸時代中期に無嗣廃絶の危機があり、
幕府の配慮で所領を1/3に減らされて存続。
幕末の当主本多忠民老中首座

鳥居元忠(鳥居左京亮家)
(→壬生藩3万石)
関ヶ原の前哨戦伏見城の戦いにおいて、
2千弱の兵で籠城して大軍を迎え撃ち、
華々しく討死した鳥居元忠は、
後に三河武士の鑑と称えられ、
徳川家より厚遇されます。
・・が、孫の鳥居忠恒が無嗣断絶。
幕府の配慮により再興されますが、
3代鳥居忠春や4代鳥居忠則が悪政を敷き、
厳封処分となっていますが、
名君である5代鳥居忠英が加増されて、
壬生3万石に封じられて幕末を迎えます。
幕末期は家臣団で藩論が割れており、
新政府への恭順が遅れました。

大久保忠世(大久保加賀守家)
(→小田原藩11万石)
忠佐と共に戦功を挙げた大久保忠世は、
子の大久保忠隣が改易されたため一時断絶。
忠隣の孫大久保忠職の代に再興されます。
その次代大久保忠朝が小田原へ転封されて、
以後は小田原藩主となりました。
幕末の当主大久保忠礼遊撃隊を支援した為、
戊辰戦争後に蟄居させられています。

長いので⑨~⑯は次回。

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