岡山県高梁市 備中松山城②

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展望台より備中松山城を遠望した後、
そこから高梁市街へ向かう。
高梁市街は山に囲まれた盆地で、
そこを高梁川が貫流しており、
川の両岸に城下町を形成しています。
高梁市街の北側に備中松山城があり、
山城は平時には不便な為、
山麓に御根小屋と呼ばれた御殿を設置して、
藩の政務および藩主の居館としました。
現在の岡山県立高梁高等学校の敷地が、
御根小屋のあった場所。
小屋とは名付けられていますが、
もちろん巨大な御殿だったようです。

備中松山城は鎌倉時代秋庭重信が、
大松山に城を築いた事にはじまり、
時代を経て隣の小松山まで拡張。
戦国時代には三村元親が城主となり、
毛利家に臣従していましたが、
織田信長に寝返った為に、
小早川隆景の軍勢に攻められて討たれ、
毛利家が領有することになります。
関ヶ原の戦い後に毛利家が減封されると、
備中松山城は幕府直轄となり、
小堀正次小堀遠州が代官として入り、
その後に池田長幸に与えられ、
以後は水谷家安藤家石川家と代わり、
最終的に板倉宗家が入封しました。

備中松山城へ登城開始。

山田方谷先生家塾 牛麓舎跡」。
藩校有終館の学頭山田方谷の邸宅跡で、
ここで家塾を開いて牛麓舎としました。
方谷の家は元々武家でしたが、
祖父の代に追放されて百姓の身分。
優秀な方谷は士分に抜擢され、
遊学して佐藤一斎陽明学を学び、
帰国後に藩校有終館学頭に任命されており、
藩の財政改革にも参加しました。
藩主板倉勝静は方谷に絶大な信頼を寄せ、
藩の内政を担当させて財政は好転。
藩の実収入は20万石に及んだという。


松山城シャトルバスのりば」。
自家用車で登れるのはここまで。
ふいご峠までシャトルバスで登ります。
5分程度の道のりでした。

ふいご峠より徒歩で山頂部へ。
5歳と2歳の子供を連れての登城は、
かなりしんどいものがあります。
佐伯城にも歩いて登ったみよちょんも、
※記事はこちら
流石にここではギブアップ。
2歳のゆきちゃんも抱っこなんで、
二人を抱っこして登るという苦行の末、
ようやく石垣がみえてきました。


大手門跡」。
石垣が見えるとテンションも上がります。
乳酸出まくりの足に鞭打って登城。


大手門跡より見上げると、
そこは見たことのある景色。
実はこの備中松山城は、
大河真田丸のOPに使われた城です。


大河ドラマ「真田丸」のOP。


二ノ丸」。
結構多くの観光客が登っていて、
しかもご老人ばかり(平日ですしね)。
この二ノ丸でお弁当を食べておられました。
お弁当が無いのが悔やまれます。


天守」。
全国で12棟しかない現存天守の中で、
一番高い位置にあるのがこの天守です。
二層二階の小さな天守ですがそれでも立派。
本丸には300円必要なのですが、
仮に財布忘れたら最悪だったろうなぁ。


囲炉裏」。
天守の中に囲炉裏があるのは非常に珍しい。
備中松山城は実際に篭城戦を経験した城。
標高が高くて寒いので、
暖を取るのに丁度良さそう。


天守2階からの眺め。
紅葉も綺麗で遠くに見える城下も美しい。


二重櫓」。
天守の裏手にある2階建ての櫓。
備中松山城の櫓の中で2階建てだったのは、
天守とこの二重櫓のみだったようです。

幕末の藩主である7代板倉勝静は、
井伊直弼と対立して安政の大獄で罷免。
井伊が桜田門外の変で暗殺された後は、
2度も老中となって幕政に関与しました。
徳川慶喜にも厚く信任されていたようで、
老中首座会計総裁にも任じられ、
その後の大政奉還にも関与しています。

鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が、
密かに大坂城から脱出すると、
勝静もそれに同行して江戸に向かいますが、
慶喜が朝敵となると老中を辞任。
新政府によって蟄居処分となり、
宇都宮藩に預けられて、
領内の英厳寺に軟禁されていました。
その後に宇都宮戦争が始まると、
勝静は大鳥圭介伝習隊に助けられ、
以後は奥羽越列藩同盟の参謀として、
戊辰戦争を戦っています。

一方の備中松山藩の国許では、
新政府が岡山藩に討伐を命じますが、
山田方谷は城の明け渡しを決断。
不在の藩主を強制的に隠居させて、
先代の従弟板倉勝弼を新藩主に迎え、
全面投降して岡山藩の占領下に入りました。
程なく熊田恰が藩兵を率いて帰国しますが、
岡山藩は責任者として熊田の首級を要求。
熊田は責任者として自刃しています。
そんな国許の様子を知らぬ勝静は、
明治2年の箱館戦争まで戦い続けますが、
新政府は勝静が降伏しなければ、
恭順は認められぬと強硬姿勢をとった為、
方谷は藩士を箱館に派遣し、
国許の状況及び新藩主の就任を知らせ、
江戸に勝静を連れ戻しました。
勝静は安中藩預かりとなり、
備中松山藩は2万石厳封で存続が決定。
廃藩置県後に備中松山城は廃城となり、
山麓の御根小屋が取り壊されますが、
山頂部はそのまま放置されています。
このことで天守が現存されました。


大手門跡でのゆきちゃん
頑張って連れて来たんですけど、
2歳なんで城に登った事なんて、
すっかり忘れちゃうんでしょうね。

【備中松山藩】
藩庁:備中松山城
藩主家:板倉宗家
分類:5万石、譜代大名

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