青森県上北郡 野辺地湊と春陽丸の砲撃

野辺地湊北前船の寄港地として栄え、
大豆などの産物を積み出す船や、
大坂からの生地
日用品などを降ろす船で賑わました。


青森県北東部周辺。赤丸が野辺地湊。
陸奥湾の最奥部にあたります。


浜町の常夜燈」。
野辺地町のシンボルでもある常夜燈
廻船問屋野村治三郎が建てたもので、
関西商人橘屋吉五郎によって、
ここまで運ばれています。
毎年3~10月の夜に火が灯され、
入港する船の目印となっていました。


復元北前型弁才船みちのく丸」。
古来の和船の建造技術を後世に伝える為、
船大工16名により復元された北前船。
平成17年に完成した船で、
みちのく北方漁船博物館の所有でしたが、
同館の閉鎖に伴い野辺地町に譲渡され、
現在は常夜燈の横に陸揚げされています。
訪問時は雪の被害から守るために、
ブルーシートで覆われていました。

野辺地戦争13日前の明治元年9月10日。
戊辰戦争終盤を迎えた頃になっても、
戦火の被害が無かった野辺地ですが、
突如久保田藩所属の軍艦春陽丸が現れ、
海上から砲撃を仕掛けてきました。

春陽丸は佐賀藩士中牟田倉之助が指揮し、
秋田から陸奥湾に入って野辺地を砲撃。
約60発の砲弾が打ち込まれましたが、
人的被害は無く物損もごく少数でした。
逆に野辺地側からの応戦により、
春陽丸は被弾。
秋田へ退却しています。


遠見番所跡」。
陸奥湾に侵入する外国船の発見を行う為、
盛岡藩が設置した番所の跡。
常夜燈公園」入口付近にあります。


大砲台場跡」。
盛岡藩が安政3年に建築した台場跡。
新渡戸傳新渡戸十次郎親子の設計で、
目視されにくい工夫がされていたようで、
台場の被害はなかったといいます。
春陽丸へは17~18発の砲撃が行われ、
帆柱と船体中央に2発が命中しました。

野辺地に落ちた弾も、
春陽丸に当たった弾も、
爆発しなかったようですから、
双方とも旧式の大砲だったのでしょう。
野辺地戦争の前哨戦は、
物的被害のみの砲撃戦でした。

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