高月院は佐土原藩島津家の菩提寺。
薩摩藩では浄土宗や浄土真宗は禁止ですが、
この高月院は浄土宗のお寺です。
初代島津以久は晩年に大雲院の門に入り、
浄土宗の門徒となっていましたし、
佐土原は日向伊東家の領地であった場所で、
他所から来た島津家が統治するにあたり、
不要な宗教弾圧を避けたものと思われます。
「青蓮寺高月院山門」。
高月院は2代藩主島津忠興が、
父である以久の三回忌に建立したもので、
寺名は以久の戒名に由来するもの。
以後は佐土原藩島津家菩提寺となり、
藩主らの墓所となりました。
「本堂」。
本堂は文化9年に全焼。
多くの寺宝などが失われましたが、
翌年直ちに再建されており、
現在の本堂はその時のもの。
左から、
「豊烈曜後之碑」、
「佐土原藩戦没招魂塚」、
「東賊征伐藩士従軍戦没各霊供養」の地蔵。
戊辰戦争での佐土原藩戦没者の慰霊碑。
大雲院よりここに持ってこられたようです。
戊辰戦争では大雲院は佐土原藩本営となり、
凱旋後には盛大な慰霊祭が行われて、
これらの碑が建立されました。
昭和58年にこの高月院に移築され、
大雲院には複製が置かれたようです。
「佐土原藩島津家御廟所」。
高月院本堂の裏手にある藩主家墓所。
「初代以久公」墓。
宗家15代島津貴久の弟島津忠将の子で、
島豊臣秀吉の軍門に下った後の領地再編で、
種子島、屋久島、沖永良部島を与えられ、
後に垂水に領地替えされて、
垂水島津家となります。
以久は従甥島津豊久の旧領を与えられ、
初代佐土原藩主となりました。
結束の固い島津家にあって、
独立志向の強い人物だったようで、
豊久の領地が島津家に返還される際に、
領有者として手を挙げたとされています。
「十代忠寛公」墓。
幕末の藩主11代藩主島津忠寛の墓。
※5代藩主島津久寿を数えていないので、
1代少ない。
※4代藩主忠高の嫡子が幼少だった為、
久寿はつなぎで藩主となっており、
成長した際に家督を譲っています。
開明的な藩主だったようで、
財政や軍政の改革を行っており、
宗家の薩摩藩に従属しました。
廃藩置県後は東京に移り、
明治29年に死去しました。
「十一代忠亮公」墓。
11代藩主忠寛の長男で、
明治2年に弟らと米国に留学。
次弟は旧大村藩主家を継いだ大村純雄で、
末弟に西南戦争で佐土原隊を率いて参加し、
城山で戦死した島津啓次郎がいます。
佐土原城の南西にある天昌寺跡へ。
前島津と呼ばれる家久、豊久の墓所を訪問。
天昌寺は前島津の菩提寺でしたが、
廃寺となって墓所のみが残されています。
「家久公墓」「豊久公墓」「家久公室墓」「家久公母墓」。
天昌寺は島津以久が入封以後も存続し、
佐土原藩の庇護を受けていました。
豊久の戦死後に一旦幕府領となった際、
旧臣達は佐土原を離れて永吉に移住。
後に再興が許されて永吉島津家となり、
家久、豊久が初、2代の扱いとされました。
永吉にも天昌寺が建てられましたが、
同じく廃寺となっています。
関ヶ原や庄内の乱で戦死した家臣の墓。
島津家には捨てがまりという戦法があり、
撤退の際に小隊を殿として留まらせ、
前員が死ぬまで戦わせ、
全滅すれば新たに小隊を留まらせて、
更に死ぬまで戦わせる。
そうして時間稼ぎをする事で、
本隊を無事に退却させる戦法。
まさにトカゲの尻尾切りの作戦でした。
豊久はこの戦法で大将島津義弘を逃がし、
自らは多くの部下と共に戦死しています。
幕末には薩摩の立ち撃ち、
長州の寝撃ちと云われ、
立ち撃ちの方が敵の弾に当たりやすいし、
兵士にも度胸がいる。
死ぬことを恐れていては出来ない撃ち方で、
捨てがまりに通じるものがありました。
戦国時代の九州地方の戦いは、
中央に比べて戦死者が極端に多く、
大将の戦死も各段に多いし、
篭城で将兵共に全滅というケースもある。
九州人の気質なのでしょうか?
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