豊永長吉は幕末期の坂本龍馬との交友から、
印藤聿としての名の方が知られています。
幕末を生き延びて明治に活躍した人物は、
明治以降の姓名で知られる訳ですが、
坂本龍馬ありきで語られる事が多い分、
幕末期の名前で呼ばれる事が多いようです。
※ここでも印藤聿に統一します。
彼の墓は功山寺墓地にあります。
「豊永長吉墓」。
所狭しと並ぶ功山寺墓地において、
豊永家の墓域は結構な広く、
家老家の墓域よりも広い。
起業家としての業績によるものでしょう。
印藤は長府藩士下村又三郎の三男に生まれ、
藩校敬業館に学び、算術、馬術、槍術、
躾法を各師に学び、
優秀で特に槍術は奥義を究めたという。
嘉永6年に印藤吉郎佐衛門の養子となり、
安政6年に家督を相続。
下関攘夷戦では砲術司令士となり、
藩主より感謝状を賜り、
この頃に坂本龍馬と知り合いました。
長府報国隊が結成されるとその軍監に就任。
慶応3年より宇部村沖の埋立事業に従事し、
水田や塩田を開き、
維新後は会計督務等を務め、
明治4年に士籍を捨てて豊永長吉を名乗り、
商人となって塩田経営等を開始します。
豊永組、士族就産義社を立ち上げ、
失業士族の救済に貢献した他、
門司築港会社、千寿製紙会社、
日本舎密製造会社、門司鉄鋼株式会社、
株式会社起業銀行、真宗信徒生命、
馬関煙草株式会社、防長農工銀行と、
数々の起業に関わっています。
また彼は山縣有朋の媒酌人だったとされ、
山縣の妻友子の叔父ということですが、
湯玉の庄屋石川家との関係は、
よくわかりません。
■関連記事■
・下関市長府 功山寺/下村文次郎墓所
報国隊六番小隊司令の墓。
・山縣の結婚式の日に晋作が危篤となる
印藤は山縣の媒酌人だったとされます。
・下関市豊浦町湯玉 庄屋石川邸跡
湯玉の庄屋石川家の邸宅跡。