長府藩の尊攘派の首領格といえば泉十郎。
長府藩士荻野十郎左衛門の次男として生まれ、
同藩士野々村合左衛門次晋の養子となります。
※野々村家は130石馬廻格。
家督相続後の文久3年には藩奉行職を務め、
青年藩士らを集めて精兵隊を組織。
※福原和勝や三吉慎蔵も参加。
元治元年11月17日に五卿が功山寺に入ると、
寺社奉行としてこれを接待しています。
同23日には同志と豊功社で決死報国の盟約。
功山寺挙兵した際の大庭伝七宛の遺書には、
「野々村に五両借りたが返却できないで、
その件につきましても宜しくお伝え下さい」
という意の事が書かれていたようで、
高杉晋作と交友もあったようです。
元治2年1月18日。
報国隊組織上申書を作成して藩に提出。
結成許可が下りると原田隼二と共に、
報国隊都督に就任しています。
下関が本藩直轄となるよう画策すると、
これをけしからんと晋作らに刺客を送った他、
保守派で目付役の林郡平を殺害。
しかし報国隊内で軍監の熊野九郎と対立し、
熊野が刺客の件等を密告した為に捕らえられ、
慶応元年11月27日に功山寺江雪庵の庭で、
詰腹を切らされてました。
彼の墓は功山寺墓所にあります。
「贈正五位泉十郎墓」。
泉十郎の墓は野々村家の墓域にありますが、
贈位付きですので維新後に建てられたもの。
泉姓は彼が他藩士を斬った為に、
藩主の許可を得て名乗った名前ですので、
野々村家として墓が建てられたのでしょう。
※この他藩士は誰なのかよくわかりません。
功山寺の江雪庵の庭で切腹したとの事ですが、
その江雪庵という僧房は現在ありません。
※[長府藩報国隊史]による。
江雪庵の位置。
古地図には確かに江雪庵載っています。
街道や檀具川の曲り具合から推測すると、
下の地図の位置が江雪庵があった場所。
現在の江雪庵跡の位置。
現在は寺域からはずれて宅地となっており、
全く何も残っていません。
「江雪庵跡」。
現在の様子。
写真のあたりというだけで留めておきます。
人が詰腹を切らされた場所だったってのも、
気持ちの良いものではないでしょうから。
そういう場所は日本中に沢山ありますし、
自分の家だってどうだかわかりません。
いちいちそんなこと気にしてたら、
日本のどこにも住めなくなりますが、
知らなくて良いならその方が良いですからね。
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