禁門の変の前夜、在京の加賀藩世嗣前田慶寧は、
家臣らを集めて今後の方針を議論しました。
激論の末に3つの意見に別れ、
1つ目は、尊攘派による長州藩同調論。
2つ目は、佐幕派による長州藩排除論。
3つ目は、中立を保って自立割拠論。
最終的には「御周旋は充分行届あれば、
自今御守衛を専一するを可とせり」
という年寄奥村栄通の意見が採用されて、
翌朝未明に慶寧は宮中警護の任を放棄し、
無断で京都を退去しました。
慶寧一行は加賀藩飛地の近江国海津に至り、
退去行為が敵前逃亡と見なされたと報告を受け、
国許金沢からも藩主前田斉泰の命で、
加賀藩年寄長連恭率いる軍勢が海津に到着。
長は慶寧に京に引き返すように説きますが、
最終的には金沢帰還と言う事になります。
慶寧に従っていた家老松平大弐は、
この金沢帰還の責任を取ることとなり、
海津の正行院で切腹しました。
マキノ町海津周辺(正行院の場所)
「正行院」。
正行院は知恩院の末寺で、
海津における浄土宗の中心的寺院でした。
「本堂」。
本堂には切腹した松平大弐と、
介錯した佐川良助の位牌が安置されていますが、
大弐の切腹した部屋は残されていないという。
「贈従四位大貮松平君碑」。
明治31年に地元有志によって建立された碑。
従四位を追贈された事を記念したもの。
松平大弐は小松城番、算用場奉行を経て、
文久3年に家老役となっており、
元治元年に京都詰家老となりました。
京都では幕府-長州間の周旋に奔走しますが、
尽力の甲斐なく禁門の変が勃発。
激論の末に中立を保つため、
京都を離れる選択をする事となります。
しかしこれが敵前逃亡と見なされ、
その責任を世嗣附二番家老として負い、
正行院において切腹しました。
首級は検分の為に金沢に送られますが、
身体は荼毘に付されて本堂裏手に埋葬。
現在はその灰塚が残っています。
「加州松平大貮灰塚」。
世嗣附家老として禄高が上の第一家老として、
山崎庄兵衛範正が上役としていましたが、
第二家老の松平大弐が責任を取った事で、
人々はこれを憐れんで、
「第一に死ぬべき者が死なずして
大弐が死んで何と庄兵衛」
という落首が金沢で出回ったという。
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