徳川家康の高祖父松平長親の子松平信定は、
松平清康(家康の祖父)が殺害されると、
宗家の座を奪う為に岡崎城を占領しますが、
他の家臣らの支持を得られませんでした。
仕方なく清康の継嗣松平弘忠に帰順し、
再び家臣として仕えますが、
反抗的な態度は改めてはいません。
信定の死後に家督を継いだ2代松平清定、
それに続く3代松平家次、4代松平忠正と、
宗家に数度の反抗を見せていましたが、
家康の覇業が進むにつれて宗家に従属。
桜井松平家として存続しています。
「菩提寺」。
一般的に菩提寺とは固有名詞ではなく、
位牌を納めて菩提を弔う寺の事ですが、
この寺は寺名を菩提寺と称しています。
元々は桜井寺という寺だったようで、
戦乱によって荒廃していたものを、
桜井を領した信定が再建し、
桜井松平家の菩提寺として整備し、
寺名を桜井山菩提寺と改称しました。
「本堂」。
本尊は阿弥陀如来像。
明治初期に長野の善光寺より、
善光寺如来を写して如来像を鋳造し、
善光寺堂を建立して祀っています。
戦時中の昭和20年には、
児童50余名が疎開しており、
本堂と善光寺堂に寝泊まりしていたという。
この年の1月に発生した三河地震では、
霊感を感じた当時の住職が、
児童と善光寺如来を本堂に移動させると、
すぐに大地震が発生して善光寺堂は全壊。
間一髪で全員無事であったという。
桜井松平家の墓所は本堂向かって左側。
左から、
「本性院殿譽一岳道隣大居士」、
「乾崇院殿徳譽心峯道観大居士」、
「菩提寺殿勝譽一心道見大居士」、
「圓言院殿髟譽祥雄道喜大居士」、
「廣大院眞譽華岳道春大居士」、
※右端の小さい墓は家次三男松平忠廣。
5代松平忠吉、3代松平家次、
初代松平信定、2代松平清定、
4代松平忠正の墓。
上記のように4代忠正まで反抗しますが、
忠正は家康との戦いに敗れた後に従属。
その後は5代忠吉、6代松平家広と早逝し、
7代松平忠頼は囲碁の喧嘩で殺されます。
この為に一時断絶してしまいますが、
忠頼の長男松平忠重に再興が認められ、
佐貫藩、田中藩、掛川藩、飯山藩、
そして2度目の掛川藩を経て、
10代松平忠喬が尼崎藩に入封し、
以後は尼崎藩主として定着しました。
「櫻井氏歴代家主之墓(右)」、
「櫻井氏歴代夫人之墓(左)」。
墓域にある歴代家主と夫人の累代墓。
こういう感じに分けてるのも珍しいですね。
7代松平忠頼、8代松平忠重の墓も、
菩提寺のHPにはあると書かれていましたが、
見当たらないので家主の墓と合葬でしょう。
尼崎藩桜井松平家の墓所は、
尼崎の深正院と江東区の霊巌寺です。
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