乙6号5側に大原重徳の墓があります。
「贈正二位大原重徳墓(左)」、
「貴族院議員正二位勲三等
伯爵大原重朝之墓(右)」。
大原重徳は権中納言大原重尹の五男で、
兄大原重成の死去により家督を相続。
日米修好通商条約の締結に反対し、
延臣八十八卿列参奏上に参加しています。
文久2年には勅使として江戸に派遣され、
※島津久光の行列が護衛していますが、
この帰路に生麦事件を起こしています。
幕府に対し政治改革や攘夷を要求。
この結果、徳川慶喜が将軍後見職に、
松平春嶽が政事総裁職に任命されました。
復命後に勅諚改竄の罪で落飾閉門され、
放免後も延臣二十二卿列参奏上で再び閉門。
その後に許されて新政府の参与に就任し、
以降は笠松裁判所総督、刑法官知事、
議定、上局議長、集議院長官等を歴任し、
明治3年に麝香間祗候となりました。
明治12年、死去。
大原重朝は重徳の三男として生まれ、
元服後に宮中に出仕。
父と共に延臣二十二卿列参で閉門となり、
後に許されて新政府の参与となります。
明治10年に家督を継いだ兄が死去し、
※自宅で強盗に襲われ殺害。
同年に家督を相続しており、
外務省に出仕して御用掛等を務めました。
子爵を経て父の勲功から伯爵に叙爵。
後に貴族院議員となっており、
大正7年に死去するまで在任しています。
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