秋田県能代市 荷上場宿跡

荷上場宿羽州街道の49番目の宿場町。
かつては酒津と呼ばれていましたが、
小繋村に通ずる渡し場が設けられて、
舟渡し荷揚げが行われるようになり、
荷上場村と呼ばれるようになったという。


二ツ井町荷上場及び小繋周辺。
緑の線が街道筋で左の青でぼかした辺りが、
荷上場宿のあった場所。
右側の青でぼかした辺りが小繋宿で、
両宿場は一里渡しで繋がれていました。

南側より散策。
荷上場宿に入る手前に用水路があります。

岩堰用水路」。
久保田藩家老梅津政景の知行地比井野村は、
※荷上場宿南側の村落。
米代川より高台にあって水利が悪かった為、
藤琴川上流より用水路を掘削しました。
これが現在も改修されて使用されており、
周辺の水田に水が引かれているようです。


荷上場宿跡」。
宿場や川運の拠点として栄えた他に、
藤琴川対岸に加護山精錬所が出来た為、
その鉱夫も住むようになって隆盛しました。
現在は古い建物もなく往時の面影は無し。


本陣肝煎菊池家跡」。
本陣を務めた菊池家跡。
現在も当主が住んでいるようです。
肥後国菊池より移住してきたようで、
久保田藩より山守を命じられ、
後に代々荷上場肝煎を務めました。
幕末期には広大な農地を持つ地主となり、
酒造業も営んでいたようです。


きみまち阪」。
左側がきみまち阪と呼ばれる険しい山。
この山がある為に陸路で小繋へは行けず、
通常は舟渡しが利用されました。
とはいえ川の増水等で、
舟渡しが利用できない場合は、
この険しい山をよじ登っていったようで、
僅か1km程度の距離ながら、
1里(4km)歩く程の難渋をしたようです。
その難渋を避ける事が出来る舟渡しを、
1里渡しと呼ぶようになったという。
ちなみにきみまち阪の名称は、
明治15年に命名されています。
往時の名称は荷上場側が郭公坂
小繋側が馬上坂又は畜生坂であったという。

吉田松陰東北遊学でここを訪れた際、
一里渡しを利用せずに坂をよじ登り、
小繋宿で一泊しています。


荷上場の船場跡」。
堤防上にある船場跡の標柱。
現在は堤防が整備されていますので、
往時の川岸とは違っています。
また時代によって場所も変わったとのこと。

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