佛心寺は西条市にある臨済宗妙心寺派寺院。
慶安3年(1650)に2代藩主一柳直治が、
開山に南明禅師を迎えて菩提寺としました。
「佛心寺」。
立派な建物と広い境内を持つ寺院。
小松藩の建物が移築されているようですが、
どの建物がよくわかりませんでした。
佛心寺の南側に墓地がありますが、
多くの方が一柳家墓所を見つけられず、
参拝を断念しているとのこと。
僕もかなり探しましたので、
後進の方の為の地図を載せておきます。
佛心寺墓地の航空写真。
一般の墓地からは離れています。
一般墓地との間には私有地があり、
南側から行かなければ辿り着けません。
墓石は丸みを帯びた突状方柱型で、
台は一つだけの質素なもの。
これは2代直治による考えのようで、
「宗家西条藩は五輪塔の墓、
次兄川之江藩は笠付き二つ台の墓、
小松藩は末弟ゆえ一つの台でよい」。
とのこと。
家臣達もこれに倣ったという。
「故兵部侍郎一柳府君墓」。
小松藩2代藩主一柳直治の墓。
直治は佛心寺の開基。
初代一柳直頼の長男として生まれ、
僅か4歳で父の死去に伴い家督を相続。
治世では新田開発や和紙生産奨励を行い、
藩財政の基礎を構築しています。
後方の3基は2代直治の二男一柳治良、
4代一柳頼邦の四男一柳邦常、
5代一柳頼寿の長男一柳頼忠の墓。
3代藩主一柳頼徳の墓の写真は撮り忘れ。
頼徳は2代直治の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
40歳での藩主就任だったようで、
9年の治世で死去しました。
能書家として知られていたという。
「故兵部侍郎従五位下
越智宿禰一桺頼邦之墓(手前)」、
「玉林院眞如妙光大姉(奥)」。
小松藩4代藩主一柳頼邦の墓と、
その正室玉林院の墓。
2代直治の二男治良の長男に生まれ、
叔父で3代の頼徳の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しています。
治世では享保飢饉に見舞われていますが、
普段より備蓄米の備えをしていた為、
領内から餓死者を出していませんでした。
「故但州刺史従五位下越智頼壽之墓」。
小松藩5代藩主一柳頼壽の墓。
4代頼邦の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
治世では治水等で米の増産を図ったようで、
35年の治世の後に隠居しています。
「故兵部侍郎越智頼欽墓(手前)」、
「従五位下兵部少輔
勇義軒一柳公夫人墓(奥)」。
小松藩6代藩主一柳頼欽の墓と、
継室琴松院の墓。
5代頼寿の次男として生まれ、
兄の早逝により継嗣となった為、
父頼寿が竹鼻正脩を侍講に任じ、
教育を受けさせています。
父の隠居に伴い家督を相続。
17年の治世の後に死去しました。
7代藩主一柳頼親の墓はここにはなく、
臼谷山にあるとのこと。
頼親は6代頼欽の長男として生まれ、
父の死去に伴い僅か6歳で家督を相続。
治世では文教の振興が図られており、
竹鼻の提言で藩校養正館(培達校)を設置。
儒学者近藤篤山を招聘しています。
「従五位小松藩故知事恭靖軒一桺公墓(左)」、
「正三位一柳紹念之墓(右)」。
小松藩8代藩主一柳頼紹の墓と、
小松一柳子爵家2代当主一柳紹念の墓。
頼紹は旗本村越成芳の二男として生まれ、
叔父の一柳寿重(頼寿七男)の養子となります。
7代頼親が継嗣無く死去した為、
末期養子としてその家督を相続。
先代と同じく文教政策を進めており、
国政では尊皇攘夷派の立場を取りましたが、
新政府への恭順は鳥羽伏見の戦い後で、
三男で嫡子の一柳頼明を上洛させました。
戊辰戦争では北越方面に藩兵を派遣。
明治2年の藩政奉還直後に死去しています。
次代頼明の墓はここにはありません。
頼明は小松一柳子爵家初代当主ですが、
隠居後に別家を創設しています。
2代当主紹念は頼紹の四男に生まれ、
当主の兄頼明に家督を譲られました。
説明板には初代藩主一柳直頼の墓は、
「隣接する物見山にある」。
7代藩主一柳頼親の墓は、
「臼谷山に葬られた」と、
非常にモヤっと説明されています。
物見山も臼谷山もどこかわからずでしたが、
後で調べて何となくの位置は特定。
次回訪問時には参拝するつもりです。
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