東京都中野区 吉良家墓所

PCの整理をした際に写真を発見したので、
かなり前ものですが記事にしました。

忠臣蔵の敵役である吉良上野介の墓所。
同地には櫛羅藩永井家の墓所もありますが、
東京都中野区 櫛羅(大和新庄)藩永井家墓所
同じ理由で寺名は伏せています。


吉良家墓所」。
三河吉良家14代〜17代当主の墓所。
左側の四基の宝篋印塔が当主の墓で、
右側の五輪塔吉良家忠臣供養塔
吉良家は足利家3代足利義氏の長子で、
身分が低かった為に継嗣とならず、
一門として仕えた吉良長氏を祖とし、
足利尊氏室町幕府を設立して以降は、
足利御三家筆頭となっていた家。
後に三河吉良家と奥州吉良家に分かれ、
戦国時代を経て弱体化しましたが、
鎌倉時代以来の高貴な家柄から、
江戸幕府では高家に位置付けられました。
幕府内では儀典関係を取り仕切り、
諸候に儀典等の指導を行っていましたが、
三河吉良家7代当主吉良上野介義央は、
それが仇となって浅野長矩に襲われ、
後に赤穂浪士に討たれています。
この一件で三河吉良家は改易。
分家は改称して東条家を名乗りますが、
三河吉良家の断絶を惜しんで復姓し、
500石の旗本として続きました。
但し高家に復帰する事は叶わず、
普通の旗本として存続。
義央の墓は四基のうち最右の宝篋印塔で、
霊性寺殿実山相公大居士と刻まれています。
討ち取られた義央の首は、
大石内蔵助良雄四十七士により、
泉岳寺の長矩の墓前に捧げられた後、
寺僧によって吉良家に返却され、
胴と繋ぎ合わされた後に、
市ヶ谷にあった万昌寺に葬られました。
この万昌寺が大正期に中野に移転し、
吉良家の墓所も改葬されたようです。

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