泉岳寺は港区高輪にある曹洞宗の寺院。
赤穂事件の浅野長矩と赤穂義士の墓があり、
多くの観光客が訪れるお寺です。
慶長17年(1612)に外桜田に創建され、
後の寛永18年(1641)の寛永の大火で焼失。
3代将軍徳川家光の命により、
長府藩毛利家、笠間藩浅野家、
鹿沼藩朽木家、二本松藩丹羽家、
備中松山藩水谷家が普請を行い、
現在地に再建されました。
「山門」。
天保3年(1832)の再建。
一階の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれ、
江戸三龍のひとつとされていますが、
残りの2つが不明です。
三大スープのトムヤンクンみたいなもの?
「大石内蔵助良雄」像。
浪曲の宗家桃中軒雲右衛門の発願で鋳造。
紆余曲折の末に泉岳寺に寄進され、
大正10年に除幕した大石内蔵助像。
元禄羽織を身につけて連判状を手にし、
東を睨んだ姿を表しているようです。
「本堂」。
本堂は空襲で焼失しており、
現在の本堂は昭和28年に再建されたもの。
本尊の釈迦如来像の他に、
宗祖道元禅師像、太祖瑩山禅師像、
大石の守り本尊摩利支天像が、
本堂に祀られているとの事。
「泉岳寺墓地」。
泉岳寺墓地は檀家以外の立ち入りは禁止。
立入禁止の場所も住職にお願いすれば、
入れて頂ける場合もありますが、
いくら嘆願しても絶対に無理らしい。
檀家の知り合いでもいない限り、
一生入る事は出来ないと思われます。福知山藩朽木家、芝村藩織田家、
山家藩谷家、田原本藩平野家等、
大名家の墓所が現存しているようですが、
入れないので定かではありません。
※未確認ですが朽木家の墓所は無いらしい。
「首洗いの井戸」。
吉良上野介の首をここで洗い、
長矩の墓前に供えたとされています。
「義商 天野屋利兵衛」碑。
赤穂義士に武器を提供した義商とされ、
「男でござる」の台詞で知られますが、
実際には赤穂浪士とは関係ないともいう。
熊本藩や岡山藩の大坂屋敷に出入りし、
北組惣年寄も務めた豪商であったという。
真偽は不明ですが関係あって欲しいですね。
「大観院神易呑象居士
永観院神鏡庫妙大姉」。
実業家で易断家高島嘉右衛門とその妻の墓。
ご禁制の金密売で投獄されていましたが、
慶応元年に横浜で材木商を始めて
英国公使館の建築工事などを請け負い、
多くの外国人に依頼を受けた他、
慶応3年に大旅館高島屋を建設。
常連の伊藤博文や大隈重信らと懇意となり、
鉄道敷設の為の埋め立てを受注。
ガス会社を設立して横浜に瓦斯燈を灯し、
炭鉱業や拓殖事業も行っています。
隠居後は易経を極めて易聖と称され、
自らの死期まで予知したという。
赤穂浪士の墓所へ。
「冷光院殿前少府朝散太夫
吹毛玄利大居士 神儀」。
赤穂藩3代藩主浅野内匠頭長矩の墓。
2代浅野長友の長男として生まれ、
父の死去により僅か9歳で家督を相続。
後に朝鮮通信使饗応役に選ばれ、
通信使伊趾寛らを饗応しています。
花山院定誠らの饗応役も務めており、
以降は火消大名として活躍し、
元禄14年に再び勅使饗応役を拝命。
礼法指南役に吉良義央が任じられますが、
何らかの遺恨があったようで、
松の廊下で長矩は吉良に斬りつけました。
長矩は即日切腹となり赤穂藩は改易。
遺骸が引き取られてここに葬られています。
「赤穂浪士墓所」。
赤穂浪士の48基の墓塔が並ぶ墓所。
戒名は刃と劔の文字が付けられてますが、
それが自刃した為というのはデマ。
禅宗の語録碧巌録より引用されたようで、
不可能なことを成し遂げたという意味で、
当時の住職が戒名としたようです。
「忠誠院刃空浄劔居士」。
大石内蔵助良雄の墓。
赤穂藩筆頭家老で断絶後は残務処理を担当。
浅野家再興の為に尽力して旧家臣を纏め、
再興が絶望的となると主君の仇討ちを決意。
46名の浪士達と共に吉良邸に討ち入り、
激闘の末に吉良を討ち取りました。
吉良の首を長矩の墓前に供えた後、
赤穂浪士は4つの大名家に預けられ、
幕府の裁定によって切腹となり、
大石は熊本藩邸で自刃しています。
この事件は当時の人々に感銘を与え、
義挙として称賛された他、
歌舞伎や人形浄瑠璃の題材となっており、
後の幕末の志士達にも影響を与えました。
幕末関連の墓碑を発見!
「明治戊辰 藝州藩戦死者墓」。
戊辰戦争での広島藩戦死者39名の慰霊碑。
全員の名が側面に刻まれています。
広島藩浅野家は赤穂藩浅野家の宗家ですが、
ここにあるのはその関係でしょうか?
丘の上には泉岳寺墓地が見えますが、
ここからでは何もわかりません。
吉田松陰が密航に失敗して捕縛され、
江戸護送中に泉岳寺の前を通ったようで、
松陰は赤穂浪士に思いを馳せ、
かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂
と詠んでいます。
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大石が引き渡した元浅野家の城。
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多くの志士らが義士にあやかりました。